第10/11話 エスケープ

 左右の腕の筋肉をフル稼働させているせいでただでさえ酸素の消費が激しいというのに、供給は完全に絶たれている。あっという間に心肺が苦しくなり痛くもなった。ぐぐぐ、と器の底が迫ってくる。このままではいずれ押し潰されずとも溺れ死ぬことは明らかだ。

(な、なんとか、なんとかしてこの状況を打開しないと──でもいったいどうすれば──せめて武器とは言わないまでも道具があれば──)

 脳内で閃くものがあった。左手を離し、周囲を浚う。右腕だけではとうていパワーが足りず、ぐぐぐぐぐ、と体が前へ押されていった。

 数秒もしないうちに鼻先に器の底が触れた。同時に左手も何かに触れた。細長くて硬い物だ。

(金洋鐘の舌──やっぱり器の中に落ちて──!)

 毅乃は舌を鷲掴みにした。左手を上げて麺つゆの液面から突き出す。すぐさま左の箸にぶつけた。

(壊せなくてもいい──蒲辺に「このままでは破損してしまうかもしれない」と思わせることさえできれば──!)

 毅乃の腰から箸の先端が遠ざかった。戈音が狙いどおり「唯一の攻撃手段である箸を傷つけられるくらいなら離してしまったほうがマシ」と判断してくれたに違いなかった。

(よし……!)

 喜んでいる暇もなく体が一気に下降した。舌を捨てて左手を戻し、右手と併せて頭を抱える。器の底にぶつけることによるダメージを軽減した。

(息継ぎ──いや──逃げないと!)

 膝を曲げた脚を前に向かって落とした。液面を蹴り破り器の底を踏みつける。その反動を利用し、かつ腕を下に突っ張ることで、上半身を起こした。首や胴を液面から飛び出させ、立ち上がる。

 後ろから、ばしゃっ、どんっ、という音が聞こえてきて、しぶきや振動も感じられた。必死に酸素を食らいつつ、一瞬だけ背後を確認する。ほぼ垂直になった箸が麺つゆの中に突っ込まれていた。戈音が毅乃を撲殺しようとしたのだろう。

(間一髪だったわね!)

 毅乃は器の内部をどちゃばちゃと進み始めた。縁まで行くと乗り越えた、と言うよりよじ登ってから落ちた。

 文字どおりほうほうの体で二号機から遠くへ遠くへと移動した。必要以上に距離をとったところで、やっと一息吐く気になった。仰向けに寝転がって呼吸を整え、緊張が緩まない程度に筋肉を緩める。麺つゆのせいで全身がべとつき、独特な香りを放っていた。

(ああもう、ひどい目に遭ったわ……)

 体力を回復させつつ首を持ち上げ、戈音の様子を確認した。すでに毅乃を攻撃しようとはしておらず、再び箸でナスン缶を拾おうと試みていた。

(蒲辺のやつ、コツを掴んできているようね。最初の頃は箸で挟んでもすぐ滑り落ちていたのに、今ではホームの床より少し高い位置にまで摘まみ上げることができているわ。その後、ホームの上に移動させようとするところで失敗しているけれど……近いうちに成功されてしまうでしょう。たぶんわたしの応援──玉子橋くんが着くよりも先に。

 ……そうだ、蒲辺にちょっかいをかけて操縦を邪魔して、玉子橋くんが来るまで時間を稼ごうかしら?)

 閃いたと思い高揚した気分は、その案の却下によりすぐ冷めた。

(もう体力がほとんど残っていない。二号機と渡り合えるのは、あと五分くらいでしょう。それ以降はろくに動けないようになってしまうわ。箸機械で撲殺されるか、放っておかれてナスン缶を回収されるか。

 とにかく、なんとかして蒲辺を無力化しないと……でもいったいどうすれば? やっぱり素手じゃ厳しいかしら。武器になるような物でもあればいいんだけれど)

 毅乃は藁にもすがる思いで辺りを見回した。その時、東ホームよりもさらに東、アースゾーンの床の上で、何か物が大破し散乱していることに気づいた。

(あれは……ゴンドラの残骸ね。きっと、残っていた二本のワイヤーが、わたしが佐比葵のドローンをコースから突き落とす前に乱射されたサブマシンガンの流れ弾を食らってちぎれ、落ちたのでしょう。ばらばらになって──)

 脳内で閃くものがあった。ゴンドラの残骸やホーム、箸機械などを観察し、推測し、計算した。

(……うん、なんとか届くはずだわ)頷いた。(この作戦で蒲辺に攻撃を仕掛けましょう!)


 蒲辺戈音は溜め息を漏らした。箸の間から滑り落ちたナスン缶が、一度は東ホームの上に乗っかったものの、明後日の方向に跳ね、またしてもコースの中に入ったからだ。さいわい、最終的に缶が静止した位置はまだ箸の届く範囲内だった。

(まあ、そんなに残念がることでもありませんわ、腕は着実に上がっていますの。この調子ならあと数度も試みないうちにナスン缶を東ホームの上に置けるでしょう。その後は二号機から降りて缶を回収し、ジェットパックで宙を飛んで撤退しますわ)

 戈音は左右のスティックから手を離した。背筋を伸ばしたり、皺の寄った眉間を揉んだり、首を傾けて骨を鳴らしたりした。

(仕方のないことではありますが、どうしても疲れてしまいますわね。やはり椎島がプラットホームに来る前、ナスン缶が一号機と二号機の間に留まっていた時にコースに下りて回収しておくべきだったでしょうか?)

 そんな考えが浮かんだが、すぐに頭を横に振って打ち消した。

(あの時は二号機のキャビンに潜んでおいて正解でしたわ。わたくしがジェットパックを担いで東ホームに上がった時、すでに椎島はナスン缶の現在位置に気づいているようでしたもの。もしわたくしがナスン缶を拾おうとしていたなら、その姿を目撃されていましたわ。

 その場合、椎島は急いで向かってきたでしょう。わたくしが宙を飛んで逃げようとする前に追いつかれ、殺害されていたに違いありませんの。椎島に姿を見られないよう注意して行動したからこそ、こっそり箸機械に乗り込んだり電源を点けたりできたのですわ)

 体力がそこそこ回復した感覚を抱いた。ふうっ、と強い息を吐いてから左右のスティックを掴んだ。再びブームを動かしだす。

(さて、早くナスン缶を回収しませんと。いくら気配を感じ取ることで椎島の接近に気づけるとは言え、油断はできませんわ)

 戈音はコントロールパネルを操作し、両方の箸の先端でナスン缶を挟んだ。摘まみ上げ、東ホームの床より高い位置にまで移動させる。落とさないよう注意し、祈ったり願ったりもしながら、キャビンを時計回りにゆっくりと回転させ始めた。

 数秒後、缶が滑り落ちた。

(お願いしますの──!)

 目をみはり、上下の歯を強く噛み合わせた。ナスン缶は東ホームの床に衝突すると、二号機に向かって転がってきた。キャビンの下部にぶつかって静止する。

(やりましたわ……!)あまり上品とは言えない笑みが浮かんだ。(早くこの機械から降りてジェットパックで──)

 思考を途中で打ち切った。他人の気配が向かってきていることを感じ取ったためだ。

(ここにはわたくしを除けば一人しかいませんわ……!)

 北東に視線を遣る。毅乃が東ホームの上を駆け、二号機に迫ってきていた。

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