第02/11話 戦闘開始

 しばらくして正面出入口に到着した。恵比に合言葉を伝える。

 恵比は笑みを浮かべた。「椎島さんと玉子橋さんだね」笑みは笑みでも薄い笑みだ。「どうぞ」

 毅乃たちはスクリーンを左右にかき分けた。内部の設備は、真ん中あたりに簡素な組み立て式テーブルが一台置かれているだけだ。奥の幕の中央にもスクリーンの下ろされている出入口が設けられていた。

 内部には二人の人間がいた。そのうちの一人、男が奥の出入口の左横に立っていた。見たところ二十代後半で、短い金髪をツーブロックに整えている。赤いアロハシャツを着て、左手首にリストバンドをはめ、サブマシンガンを携えていた。コンタクトレンズの情報によると胡松こまつ宇龍うりゅうという名前だ。

 奥の出入口の手前には女──蒲辺戈音がいて、優雅な調子の声で言った。「みなさま、ようこそおいでくださいましたわ」まさか本当に歓迎されているのでは、という考えが頭をよぎるほどだ。

 戈音は見たところ十代後半で、高慢そうな目つきをしていた。長い金髪はツイン縦ロールにまとめられ、そのボリュームは自信の過剰さを表しているかのようだ。実際、胸は並外れて大きく、体はアスリートのように鍛えられ、薄い水色のビキニ水着は上品な魅力を発している。これで己に自信を持つなと言うほうが無理な話だろう。

 戈音は足下のボストンバッグを左手で持ち上げた。「さっそくですが取引を始めませんこと?」右手には拳銃を握っていた。

 毅乃は「そうね」と言って頷いた。「ただ、ちょっと待ってちょうだい、準備するから」

 毅乃は左手のトートバッグから拳銃を取って右手に握った。錦司もリュックサックから拳銃と手榴弾を出して手に持った。

「誤解しないでよね、取引を台無しにする気はないわ。武装しただけよ、丸腰は嫌だから」

「わたくしとしてはいっこうにかまいませんことよ、あなたたちが丸腰でも」

 戈音は相変わらず顔に優雅な笑みを浮かべていた。小馬鹿にされていると言っていい。

 毅乃は悟られない程度の溜め息を吐いた。(できればもっと大人数で来たかったわね。事前の交渉の結果、九仁擬側のエージェントが二人、佐比葵側のエージェントが三人、という取り決めにはなったけれど守る必要なんてないわ。たくさんの戦闘員でこっそりテントを包囲した後、一気に襲撃することができたら楽だったのに)

 しかしそのような作戦は不可能だった。佐比葵側のエージェントの中に戈音がいるからだ。

(蒲辺は他人の気配をとても鋭敏に感じ取ることができるらしいわ。なんでも、半径数メートルの範囲内に自分以外の人間がいれば、たとえ目や耳を塞がれていたとしても必ず察知できるんだとか)

 恵比が奥の出入口からテント内に入ってきた。左手にナップサックを、右手に拳銃を持っていた。

(蒲辺がいるんじゃ、たくさんの戦闘要員でこっそりテントを包囲する、なんてできっこないわ。確実にばれてしまう、とうぜん取引は中止となる。それだけは避けなければならなかったのよね。……おっと、実現しなかった作戦に思いを馳せている場合じゃなかったわ)

 毅乃は「さて」と言って頭の中での呟きを打ち切った。「準備ができたわ、取引を始めましょう。テーブルに集まればいいのかしら?」

「ご明察ですわ」

 しばらくして、拳銃とトートバッグを持った毅乃、拳銃と手榴弾、リュックサックを持った錦司、拳銃とボストンバッグを持った戈音、拳銃とナップサックを持った恵比が、中央のテーブルに集合した。

 戈音は「ではお互いに渡す物を見せ合いますの」と言ってボストンバッグのファスナーを開けた。「まずはわたくしたちのほうから」

 鞄からナスン缶を出し、テーブルの上に置いた。銀色の大きな円柱、というような見た目だ。高さは約三十センチ、底面直径は約二十センチ。上面の縁には半円弧状の取っ手が付いている。缶の素材も内容物も非常に軽い物であり、総重量はティッシュペーパー一枚分にも満たなかった。

 毅乃は唾を飲み込んだ。「玉子橋くん、チェックお願い」

 錦司はリュックサックからゴーグルを出した。装着してナスン缶を凝視する。

「間違いない」首を縦に振った。「国立研究所から盗まれたナスン缶だ。入っている気体はたしかに硝酸ナスンで、質量は持ち出された時点からいっさい変わっていないし、蓋が開閉された形跡もない」

 毅乃は胸でも撫で下ろしたくなった。「よかったわ……」

 硝酸ナスンとは化学製品の原料としての使用が想定されている常温で気体の新物質だ。実用化に成功すれば、今よりはるかに高品質な化学製品を、今よりはるかに低費用で製造することが可能となる。

 戈音が急かす調子の声で「わたくしたちのほうはお見せしましたわ」と言った。「次はあなたたちの番ですの、確認させてくださいまし」

「わかったわ」

 毅乃はトートバッグからプラスチックケースを出した。安っぽい名刺入れのようなデザインだ。錦司はゴーグルをリュックサックにしまった。

 ケースをテーブル上に置いて蓋を開けた。中にはカードキーが一枚入っていた。橙色で中央には九仁擬の紋章が描かれている。左上隅には「3KN」という文字がプリントされていた。

 戈音は上品ながらも興奮を抑えきれていないような目つきになった。「車河さん、確認してくださいまし」

 恵比はナップサックからカードリーダーを出して右手に持った。小売店のレジ係が商品のバーコードを読み取るために使う機械のような外観だ。持ち手の末端から伸びているコードは左手のスマートホンに繋がっていた。

 恵比はリーダーの読み取り口をカードにかざした。電子音が鳴る。スマートホンの画面を凝視した。「本物だね」頷いた。「正真正銘の3KNカードだ。これさえあれば3KN‐UNSフォルダのロックを解除することができる」

 3KN‐UNSフォルダとは九仁擬のサーバーに保存されているデータだ。九仁擬は近いうちに佐比葵の本拠地を襲撃し、組織そのものを壊滅させる作戦を立てている。そのオペレーションに関する重要な情報がまとめられていた。

(佐比葵のサイバー部隊が九仁擬のサーバーを攻撃し、3KN‐UNSフォルダの複製を入手したのは三か月ほど前のこと。でもわたしたちはわりと楽観していたわ。フォルダには強力なロックがかけられていたから。専用のカードキー──3KNカードを使わないと絶対に解除できないロックが)

 楽観していられなくなったのは一か月ほど前のことだ。佐比葵がエージェントを国立研究所に忍び込ませ、ナスン缶を盗み出させた後、九仁擬に取引を持ちかけてきたのだ。「ナスン缶と3KNカードを交換しないか?」と。

(九仁擬としてはとうてい断れなかったわ。あれほどの量の硝酸ナスンを生成するのにどれだけのお金や時間が費やされたか。たった一ミリリットルでも失うわけにはいかないのよ。いや、失うだけならまだマシね。よその団体や国にでも売り飛ばされようものなら──)

 脳内での独白は唐突に打ち切られた。視界の中央に拡張現実技術によるメッセージボックスが表示されたためだ。「警告」「攻撃検知」という文と下向きの矢印が書かれていた。

 足下に視線を遣る。拡張現実技術により周囲の地面が赤く点滅していた。

(──!)

 毅乃は後ろに向かって跳んだ。錦司も同じ行動をとった。

 赤く点滅している地面のあちこちから、ばしゅばしゅっ、と鋭利な針が突き出てきた。

(やっぱり罠が仕掛けられていたわね!)

 安全地帯に着地した。視界の端から白煙が押し寄せてきてテント内に勢いよく広がり始めた。錦司の発煙手榴弾によるものだ。

 毅乃は地面に伏せた。奥の幕のほうで銃声が轟き、弾丸が頭上をかすめていった。宇龍がサブマシンガンを撃ってきたに違いなかった。

(とにかくここから脱出しないと……!)

 事前の打ち合わせどおり這うようにしてテントの右の幕に向かった。着いた所には縦に大きな切り込みが入れられていた。錦司がリストバンドを使って──カッターナイフ様の刃を出す機能が備わっている──作ったものだ。

 毅乃は急いで外──テントの北側に出た。少し離れたあたりに、ナスン缶を持って北西に逃げる戈音と宇龍、3KNカードを持って北東に逃げる恵比、恵比を追いかける錦司が見えた。

「このままとんずらできると期待しないでちょうだい」思わず呟いた。「ナスン缶、絶対に取り戻してやるわ!」戈音たちを追いかけ始めた。

(「佐比葵のやつらはまともに取引しようとしている」なんてもちろん考えていなかったわ! 「3KNカードを入手した後はこちらを攻撃してナスン缶も奪うつもりに違いない」と予想していたわよ。よそに高値で売りつけるためにね)

 途中、戈音や宇龍が何度か発砲してきた。そのたびに物陰に隠れて弾を回避したり逆に拳銃を撃ち返したりした。

(罠が動作した時、蒲辺と車河は不審な仕草をしていなかったわ。たぶん胡松が発動させたのでしょう、左手首のリストバンドでも操作して)

 戈音たちは砂浜を出ると駐輪場に入った。赤と青、二台のマウンテンバイクが停められている所に行く。どちらも前輪の手前にペットボトルホルダーが、後輪の上に荷台が備えつけられていた。

 戈音は両方の自転車のロックを解除した。赤バイクの荷台に置かれていた二本のベルトを使いナスン缶を縛りつけた。

 その間、毅乃は宇龍と撃ち合っていた。宇龍は右手にサブマシンガンを、左手に戈音から借りた拳銃を持ち、積極的に発砲していた。

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