少女武闘のウォータースライダー
吟野慶隆
第01/11話 争奪戦
(不味いわ……!)
体が前に向かって倒れ始めた。素早く周囲を確認したが、掴まれるような物はなかった。受け身をとろうとして肘を曲げた両腕を突き出す。
腕は、ばしゃあっ、と水面を押し破って水中に沈み込んだ。そのまま底に叩きつけ、インパクトを緩和させる。顔までは浸けずに済んだ。
体が、ずず、とわずかに前に滑った。地面が緩やかに傾斜し、下りスロープのようになっているせいだ。水も足のほうから頭のほうへと流れていた。
直後、毅乃の右隣を、ばしゃばしゃ、と急いで通り過ぎていく者がいた。毅乃は水しぶきを浴びた顔をしかめた。相手としても、毅乃が体勢を整えるのを少しでも遅らせるため、わざと大きな水しぶきを起こしたに違いなかった。
毅乃は半ば跳び上がるようにして立ち上がった。数メートル前方では、問題の缶──ナスン缶という名称──が水に流されているところだった。その缶をさきほど隣を通り過ぎていった女──
二人はビキニ水着を着ていて、ウォータースライダーのコースの途中にいた。ただし現在、この遊具は近いうちに開催されるイベントのため、人間ではなく巨大な素麺を流すようにセッティングされていた。それも、単に流すだけでない。あちこちに、素麺をゴンドラに載せて運ぶギミックや素麺の移動に合わせて洋鐘を鳴らすギミックなど、各種の演出装置が設けられていた。
一秒後、ナスン缶に追いついた戈音は腰を軽く曲げて缶の取っ手を掴んだ。「やりましたわ!」
〇・五秒後、毅乃は戈音に飛びかかった。戈音が腰を伸ばしてナスン缶を持ち上げたのと、毅乃がその背にタックルを食らわせたのは、ほぼ同時だった。そのまま押し倒して組みつく。
〇・一秒後、毅乃たちは宙に浮いた。コースの底が消失したのだ。と言っても終点に到達したわけではない。二人の体の数十センチ下方に別のコースが横向きに通っていた。さながら丁字路のようになっている。
(くっ、受け身を──)
とる暇もなく毅乃は戈音に組みついたまま横向きに通っているコースの底に衝突した。かと思えば右折路の奥へと滑っていき始めた。左折路から右折路にかけて傾斜し、下りスロープのようになっているためだ。
毅乃は腹這いになっている戈音の背に覆い被さっていた。戈音はいつの間にやらナスン缶を手放していた。
(どこに行ったの……!?)辺りを見回そうとした。
額を何かにぶつけた。ぱちくりさせた目を前に向ける。右折路は交差点を越えてすぐのあたりで行き止まりとなっていた。
(またとない攻撃のチャンスだわ、チョークスリーパーで気絶させてやりましょう!)毅乃は右腕を戈音の首に回した。(ナスン缶は後で捜せばいいわ……!)戈音が両手で毅乃の右腕を掴んだ。
次の瞬間、二人の体は前方から、ぐいぐいぐい、と猛烈な勢いで押され始めた。
(ちょっ──!? 何──!?)
毅乃たちは押されながら上りスロープのようになっているコースを進みだした。右折路の行き止まりの壁が猛スピードで移動しているのだ。今や二人は、左半身を下にして寝転がり、迫ってくる壁にへばりつくような姿勢となっていた。
あっという間に交差点を越えて左折路を上り始め、それも一秒と経たないうちに終わった。コースが途切れていたのだ。なすすべなく宙へ飛び出した。
(どうなって──!? いったい──!?)
必死の思いで首を巡らし、周囲の様子を確認した。二人と一緒にナスン缶も吹っ飛んでいた。
毅乃たちの行く手には奥から手前に向かって下りスロープとなっているコースがあった。その始端、今の軌道だと衝突するであろう地点は、幅が広くなっていて下向きの鋭角三角形のような形をしていた。巨大素麺をパチンコの要領で発射し離れた所に用意してあるコースで受け止める、という趣向のギミックだろう。
(このままだと着地と言うより激突ね、こうなったら──)
毅乃は戈音に組みついたまま身を捻った。戈音の体を前に移動させる。
(先に蒲辺を着地させてやるわ……! 後からわたしが着地する時、クッション代わりにすることもできる。追加のダメージも与えられて一石二鳥よ)
戈音はすぐに毅乃の目論見を察したようだった。自分も身を捻り、互いの位置を逆転させようとした。
(させないわよ!)
毅乃は戈音の拘束を解いた。膝を折り曲げて突き出し、戈音の腹にぶつける。
戈音は「がふっ……!」と呻いて毅乃から離れ、前へと吹っ飛んでいった。下向き三角形のコースの底に、左半身を下に向けた姿勢で着地、と言うよりは衝突した。
(上手く行ったわ!)
毅乃は腕を体の正面で交差させた。いくら戈音をクッション代わりにするとはいえ、人体はクッションほど柔らかくはない。顔や腹をもろにぶつけるわけにはいかなかった。
戈音は右手を顔の前に突き出し、拳を握った。即座に右に転がって仰向けになりつつ右手の拳を大きくスイングする。いわゆる回転裏拳だ。
(──!)
毅乃は腕を右側頭部の前に移動させた。〇・二秒後、戈音の裏拳を受け止めた。さらに〇・一秒後、戈音に衝突した。
「ごふっ……!」
裏拳に対するガードを優先したため、上手くショックを緩和させられなかった。毅乃の顔や胸、腹、鼠径部などが戈音の体にぶち当たった。皮膚に鋭い痛みが走り、内臓に鈍い衝撃が響いた。
戈音のほうもノーダメージというわけにはいかなかったようだ。「おごっ……!」という呻き声を漏らした。
近くのコースの底にナスン缶がぶつかった。小さく跳ね上がってから落ちると、再び水に浸かり、流されていき始めた。
戈音は「暑苦しいですわ、くっつかないでくださいまし……!」と喚いて毅乃を押し退けた。勢いよく立ち上がり、ナスン缶を追いかけ始めた。
毅乃も「待っ、待ちなさい……!」と叫ぶと、体力の回復もそこそこに体勢を整え、戈音とナスン缶を追いかけ始めた。
現在から一時間ほど前、午前十一時。
毅乃は仲間とともに二人で砂浜を歩いていた。
「それにしても、どうしてこんな──海水浴場なんかで取引を行うことになったのかしら」日光の暑さや白砂の熱さに参りそうな気を紛らわせようとして呟いた。「水着を着る羽目になったじゃないの、周囲の景色に溶け込むために。場違いな服装のせいで一般人に不審に思われて、警備に通報でもされたら、取引が台無しになってしまうものね」
毅乃は十代後半で、気の強そうな目つきをしていた。長い黒髪はツインテールにまとめられ、顔立ちの可愛らしさを強調している。平均値を大幅に上回るサイズの胸、にもかかわらず引き締まった胴や手足、濃い桃色のビキニ水着。周囲の景色に溶け込めてはいるものの、じゅうぶん目立っていた。左手首にはリストバンドをはめ、右手にはトートバッグを持っていた。
隣を歩く
錦司は二十代前半で、短い黒髪を無造作に整えていた。顔立ちは全体的に端正だが、目つきがニヒルなせいで陰気な雰囲気を漂わせていた。それなりにたくましい体つきをしているにもかかわらず、不健康そうな印象を受けるほどだ。薄い灰色のアロハシャツを着て、リュックサックを背負っていた。左手首にはリストバンドをはめている。
「取引のために部屋か建物でも借りようか、という案もあったが、屋内だと逃走することになった場合に移動しにくいからな。落ち合う場所に、屋外でしかも防犯機器の設けられていない所を選ぶとなると、この海水浴場しかない」
「なるほど。……あ、見えてきたわ。あそこが取引場所ね」
砂浜の西端の行き止まりは岩場となっていて、手前にテントが設営されていた。直方体の形で、広さは約二十畳。正面の中央の出入口にはスクリーンが下ろされ、内部の様子が覗けないようになっていた。
正面出入口の右横には男が立っていた。見たところ二十代前半で、短い金髪をマッシュルームカットに整えている。薄い緑色のアロハシャツを着ていた。
直後、視界の中に白枠が出現し、男の顔を取り囲んだ。続いて白枠から右に向かって吹き出しが出現した。そこには「氏名:
(本当に便利なコンタクトレンズよね、いちいち記憶を探る必要がなくて助かるわ。わたしたちの組織のサーバーのデータを自動で検索・抽出して、拡張現実技術で表示してくれるんだから)
佐比葵とは日本征服を企むテロ組織だ。国会議事堂に毒ガスを散布したり、警視総監を暗殺したり、自衛隊駐屯地を襲撃したりと、さまざまな反社会的活動を行っている。
錦司が「車河か……できれば会いたくなかったな」と強張った声で呟いた。「優秀なやつだ、戦闘能力はとても高い。おれたち──
九仁擬とは日本の公安組織だ。拉致された大臣を救出したり、犯罪組織を壊滅させたり、超規模破壊爆弾の炸裂を阻止したりと、さまざまな治安維持活動を行っている。
毅乃は右手で軽く拳を握った。「気を引き締めましょう」
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