第2話 イッヒハブカイネンフンガー、俺は怒れる毘沙門天

「あの女が全て——その体たらくは、まるでそう言っているかのようだな」


 白衣の男が靴音を小気味良く響かせて近付いてくるのが、音で分かる。


「……ああ」


 顔を上げず、俺はそう答えた。俺が涙を見せるべき相手は、この男では無い。決して。

 ——こんな男に、涙など見せてたまるか。


「彼女は……俺のことを愛してくれた。俺もまた、彼女のことを愛した。いつも彼女のことを思って過ごしていた……なのに、俺は彼女に何もしてやれなかった」


 その言葉を吐くと同時に、後悔がより強く押し寄せてきた。心が苛まれ、吐きそうになる——が、挫けてはいけない。動く為の足を、意志を、止めてはいけない。

 まだ彼女を救う手立てがあるはずだ。


 ——真に涙を見せるべき瞬間は、足を止めるべき瞬間は、彼女を救いだした時なのだから。


「だから——俺は! 必ず彼女を救ってみせる! 残虐悪徳料理店なんかには屈しない!」


 顔をばっと上げ、眼前の仇敵を睨む。己の双眸は憤怒と憎悪に満ち、その目に涙は最早無い。


 白衣の男は面食らったかのように目を見開き——そして目を細めてこちらを睨んできた。呆れと蔑みに満ちた瞳で、まるで汚らわしく、或いは忌々しく思っているかのようである。

 奴は嘆息を零し——


「……それは、大層な夢だ」


 吐き捨てるかのように言った。


「——ッ!?」


 その瞬間だった——店が炎上した。


「何だ!? 何しやがる!?」


 怒りの咆哮を上げながら白衣の男を睨み——その刹那、視界の端に映る。

 特殊部隊のような装備を身に纏った男が持っていたのは、火炎放射器。


 ——噂通り、俺の店を燃やす気か——!?


「や、やめろッ! この店は俺の再起と恋の証で、俺の大切な居場所なんだッ!」

「だからこそ、だ。貴様から全てを奪い、その心を完膚無きまでに打ち砕き——そして、後悔と慟哭の中で苦しんで死んでもらう」

「ふ、ふざけるな——」


 熱風が押し寄せ、俺は吹き飛ばされて壁に打ち付けられる。

 その痛みが、炎の熱が、呼吸がまともにできないことによる苦しさが、そして後悔が、薄れゆく意識の中で確かに感じられた。


 何とか目を見開き、ぼやけた視界で白衣の男を睨む。


「いいか。夢は寝ている時に見るものである。その決して叶わぬ夢を——永遠なる死の世界で見続けるが良い」











 皆は知らない、飯田飯店の秘密。


 防空壕の上に建っていた。


 故にこそ、俺は生き延びることができた。


 薄れゆく意識と、確かに感じる痛みと苦しみの中、這い蹲って防空壕の中に逃げ込む。火の手がここまで迫ってくることは無かった。


 だからこそ、先程までの出来事が夢のように感じられた。否、夢なのだ。


 ……夢、だったはずなのだ。


 痛みと苦しみ、そして熱は確かに感じていたのに、脳は、心は、それを否定せずにはいられなかった。


「ぁぁ……」


 防空壕から出て映った景色は、真っ黒で無惨だった。

 残っていたものは、俺の思い出の亡骸だけであった。


 全てが、少しの時間で焼け焦げた。失った。消えていった。


 飯田飯店、安喰実花——実家も、一族も、これまで生きてきた痕跡も、それら全てを失った俺に残されていたのは、この店と彼女だった。

 俺は再び、全てを失った。

 俺にはもう、何も無い。


 否、唯一俺に残されたもの。

 それは、心の中にあったものがぐちゃぐちゃに混ざった、どす黒い感情。


 もう、腹一杯だIch habe keinen Hunger


 俺のどす黒く満ち足りた腹、それを空にさせる方法は、一つしか無い。シンプルで、そしてこのどす黒い感情を消すのにうってつけな方法が。


 ——残虐悪徳料理店を滅ぼし、彼女を救うこと。


 俺の内なる悪魔が囁く——その為ならば、俺は毘沙門天になろうとッ!


 もう涙は枯れたッ! 悲しみも後悔も消えたッ! 今俺が抱く感情は、怒りと憎しみしか無いッ!

 残虐悪徳料理店を滅ぼす為、そして彼女を救う為——俺は毘沙門天になろうッ!


 曇天を仰ぎ、憤怒と憎悪の咆哮を上げるッ! 獣のような、悪魔のようなその咆哮が何もかも消えた空間を震撼させ、まるでこの世の全ての仇敵に届くかのようにさえ思えたッ!


 ——待っていろ残虐悪徳料理店ッ! そしてミーちゃんッ! 貴様らを殺し尽くし、必ず彼女を救ってみせようッ!


「——滅びろ! 残虐悪徳料理店!!」

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