第19話嫁
「…ただいまっす」
既に明かりの灯った部屋に向かってそう一言つぶやく。リビングまで聞こえるか聞こえないかというぐらいの声のボリュームだったが、彼女は聞き逃さなかったらしい。
リビングの方からパタパタとスリッパを鳴らしながらエプロン姿の愛里奈さんがやってきた。
「おかえりなさい透くん。今日もお疲れ様」
…嫁か。
「いつもより5分24秒遅い帰りだったわね。何かトラブルにでも巻き込まれたのかと思ったわ」
「おぉう急に細かい…」
「愛しの人の行動時間なんて把握しておくものよ」
絶対そんなことない。そんなことをするのはストーカーぐらいだ。…そうだこの人ストーカーまがいなことしてたんだった。
「愛里奈さんもお疲れ様です。…帰るの早いですね」
「当然でしょ?私の透くんを迎えるのに不備があってはモデルの名折れもいいところよ」
…多分モデルと俺は関係無いと思うな。うん。
ストイックな彼女らしいと苦笑しながら靴を脱ぐ。荷物は既に愛里奈さんによって回収されているため、まずは着替えだ。
ここにいるとようやく帰ってきたのだと実感して肩の力が自然と抜けていく。やはり家というものは心が自然と安らぐ。人間の本能と言うやつなのだろう。
慣れ親しんだ自室で着替えを済ませる。この部屋にあった監視カメラはすでに撤去してもらった。流石に自室ぐらいはと頼み込んだら渋々承諾してくれた。なんかすっごい嫌そうな顔してたけど。
ていうかまず俺の部屋にカメラがあること自体おかしいんだよな…一体いつどうやって仕掛けたのやら。彼女の侵入スキルだったらスパイでも出来るんじゃないか?
ふと机に視線を向けると、積み重なった写真集の山が目に入った。あれは先日愛里奈さんから貰ったものだ。いらないと言ったのだが、すごく悲しそうな顔をしてたので全て受け取ったのだ。一回読んだら特に使い道も無いため机に放置していたのだが…なんか増えてね?
一冊を手にとって見ると入り混じっていたのはなんと結婚週刊誌だった。ご丁寧にここ一年分が年月順に並べられている。まだそういう年齢ではないのだが。
…新手の脅しだろうか。お前なんてすぐにでもお婿さんに出来るんだぞってことだろうか。あの人ならやりかねないから怖い。最近のモデルってのは用意周到なんだな…
更にご丁寧なことに一冊一冊の式場のページに付箋が貼ってあった。選んでおけという無言の圧力を感じる。背筋を伝う冷や汗が止まらない。
…ふと思ったけどあの人家に入り浸ったり結婚だのなんだの言ってるけど親とか会社からなんか言われてたりしないのかな?言われててもやりそうだけど…
彼女は今をときめくモデルの一人。そんな彼女が見知らぬ男の家に入り浸って日夜過ごしているとなれば親御さんも黙ってないだろう。他とは別格のかわいい我が子なのだ。スキャンダルにでもされたらたまったもんじゃない。…後で聞いてみよう。
「バイトは大変だったでしょう?私がいなかったからきっと寂しかったわよね…」
「いやそんなことなかったっすけどね???」
二人で愛里奈さんの作ったオムライスを駄弁りながら食べる。卵がふわふわだ。
もはやこうして二人で食べることが普通になってしまったわけだが、数ヶ月前からしたら考えられないことだ。クラスのトップ、それも世間からも大人気な彼女と同じ家にいるなんて。変わっちまったな俺の生活…
「どうしたの透くん?そんな浮かない顔して。大丈夫?揉む?」
寄せるな寄せるな。ただでさえ破壊力のあるそれをこっちに向けるんじゃない。
「遠慮しときます。…なんか俺の生活変わったなぁって」
「ふふっ、そうね。貴方の生活はここ最近でガラリと変わったわ。私のせいかしらね?」
愛里奈さんはそう言って意地の悪い笑みを浮かべた。自覚があるなら反省してほしい。あなたのお陰で胃の痛い日々を送ってるんですよ愛里奈さん。
「ついていけなくて疲れることもあるでしょう。困ったら何でも私に言って」
「…それじゃあ早速」
「なにかしら?」
「…机のあれなんですか」
「あぁ、見てくれたのね。…どうだった?」
「どうって?」
「将来の私達の姿は想像できたかしら?」
…なに言ってんだこいつ。気でも狂ってんのか。…狂ってんのか。
「…想像もなにも、まだ早すぎるでしょう…ていうかなんで俺の未来決定してるんですか」
「当たり前よ。私と透くんの未来は決まってるもの」
「いつ決定したんですか…ていうか俺OKしましたっけ?」
「…嫌なの?」
「いや…嫌では無いんですけど…勝手に決められると困るというか…」
愛里奈さんが困った時にするこの悲しい顔は俺の心に直に訴えかけてくる。いつも俺はこの顔に丸め込まれてばかりだ。ずるい。すごくずるい。
「なら問題無いじゃない。夫婦の未来は安泰ね」
「はぁ〜…今はそれでいいですよ。…でも、結婚なんてことできるんですか?モデルなんですよね愛里奈さん」
「そうなったらまぁ公開はするわね。どうこう言われたら辞めればいいし」
「そんな簡単に…モデルの誇りはどこに行ったんですか」
「別に無いわけじゃないわよ。ただ、透くんという夫を手に入れられるのとモデルを天秤にかけたら透くんが勝ったのよ」
平然として言い切る愛里奈さんに俺は思わず呆れてしまった。俺みたいな人間のために今までやってきたモデル業を捨てるとは…この人、本当に狂ってるんじゃないか?
関わったことがあったのも数分程度の会話だったというのにこのざまだ。正直会話内容だって覚えていない。過去の俺なにを話したんだろう…
「あのですね、俺みたいな人間のために簡単に捨てようとしないでください。もっと大事にしてくださいよ」
「しょうがないじゃない。私のことこんなふうにした透くんが悪いのよ?」
「俺のせいですか…?」
俺のせいなのか…いや、俺のせいなのか?ゼロではないにしても少しぐらいは愛里奈さんだって悪いところぐらいあるだろ…
「落ち込んでるところにあんな優しさで漬け込んで…体がおかしくなっちゃうかと思ったわ」
「そんなとんでもないことした覚えはないんですが…」
「いいえとんでもないことよ。今も私の体は透くんによって支配されているの。ズブズブにね」
「ズブズブですか…」
「えぇ。治療法は1つよ」
「なんですか?」
「いっぱい甘えさせて」
「…それ逆効果では?」
「許容量を超えれば欲もなくなるわ。…今日もいっぱい甘えさせてくれるんでしょ?」
「…」
その後は結局愛里奈さんを甘やかす羽目になった。
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