第6話寝る時は
髪を乾かし終えた俺は寝室へと向かう。
愛里奈さんのこと、甘寧のこと、健吾くんのことといい、俺の人生は昨日で一転した。俺の脳は未だ整理が追いつかない。正直何がなんだか分かってない。
ただ、俺が唯一はっきり分かるのは愛里奈さんは皆が思っているよりも少しズレているということだ。
失恋のショックや状況の急変のせいで紛れていたけどあの人普通に俺の個人情報を知っているし、なんならこの家にカメラまで仕掛けられている。はっきり言って不審者通り越して犯罪者だ。彼女の手を汚したくないとか思ってたのに既に汚れてた。
ここまで来ると不安よりも疑問が勝る。どうやってここまで俺の個人情報を手に入れたのだろうか?一人でやるにしてはいささか難しすぎる。…いや、あの人ならやりかねないのかもしれないけれど。
もしかしたら協力者がいるのかもしれない。俺の個人情報を提供している性悪なやつが。…案外近くにいたりして。
「…」
「あ、透くん。来たのね」
寝室の扉を開けた先には当然のように愛里奈さんが居座っていた。俺のベッドにうつ伏せになりながらこちらに視線を向ける。既にパジャマ姿だ。普段雑誌で見る彼女はどこか大人びた印象があるが、今の彼女は年相応の幼さを帯びている。
「お風呂、もう掃除した?」
「え?はい。しましたけど…」
俺がそう答えると愛里奈さんは少し残念そうに眉を下げた。
「そう…透くんの残り湯はまた今度ね」
おっと、なんか良くないことが聞こえた気がする。気の所為であることを願おう。
「すぅ〜…透くんの匂い」
「…そういうのって本人がいないところでやるものじゃないんですか?」
「これは私からの透くんへのアピールよ。匂いを欲するまでにあなたを愛しているという求愛行動なの」
…よく分からんが、そういうことらしい。
彼女は時々意味不明なことを言い出す。本人曰く、俺への愛の現れだとか言っているけど正直それすらも意味不明だ。不審者の考えることはよく分からない。
「…ていうか愛里奈さん、このまま泊まっていく気だったんですか?」
「えぇ。こんな時間に女の子を一人で帰すつもり?」
「そういうわけじゃないですけど…愛里奈さん、自分の部屋があるんでしょ?そっちで寝たらどうなんです」
「そんなのめんどくさいじゃない。それに、目の前に今寝ようとしてる透くんがいるのに一緒に寝ない選択肢なんて無いわ」
愛里奈さんは譲らない様子だった。説得しようとした俺が馬鹿だった。
このまま寝る気にもならない俺は近くの椅子に腰掛けた。愛里奈さんは俺の様子を見て隣をポンポンと叩く。入ってこいという合図だろう。俺は気づかないふりをして椅子でくるくると回る。
「…愛里奈さんはいつから俺のこと監視してたんですか?」
「透くんに惚れてから三日後にはもう見張ってたわ。運がいいことに同じマンションの部屋だったからね」
「どうやって俺の部屋を特定したんです?」
「…勘ね」
嘘だ。絶対嘘。妙な間がそれを物語っている。
「…どうして俺の個人情報を握ってるんです?」
「それは透くんを逃さないためよ。個人情報をばら撒くって言ったら嫌でも私から逃げられないでしょう?でも、そんな必要無かったみたいだけど」
途端に俺の背中を嫌な寒気が突き刺した。回っているせいでよく見えないが、きっと愛里奈さんの瞳は闇に染まっている。モデルの裏の顔ってみんなこうなのかな…
「…どこまで知ってるんですか?」
「透くんのことなら頭からつま先までなんでも知ってるわよ。試しになにか言ってみて」
「それじゃあ…俺の好きなコンビニの惣菜パンは?」
「セブンマートのコロッケパン」
…ほんとに言い当ててきた。わりと分からなそうなところを言ったつもりだったんだが、どうやら簡単だったらしい。
「お気に入りの番組は?」
「水曜の9時からやってる3番目の彼岸花。私もゲスト出演したわ」
「朝起きたらしてることは?」
「少しの散歩。仕事がない日は朝からつけてたわね」
「…好きな人は?」
「私」
…うん。まぁ、好きか嫌いかで言われたらそりゃ好きだけど…うん。
俺は自信満々にそう答えた彼女に対して煮えきらない感情が湧いてきた。こうも堂々と言われるとなんだか変な感じだ。
「私以外ありえない。でしょ?」
「…そうかもしれないっすね」
そう答えると、愛里奈さんは満足そうに笑った。絵になるその笑顔に俺は思わずドキドキしてしまう。
「ふふっ、そうよね。透くんは私のもの…ふふっ…ふふふふふ」
…なんか違う意味でドキドキしてきた。狩人に狙われる獲物ってこんな気持ちなんだろうな。
「…ねぇ透くん、いつまでそんなところにいるつもり?そろそろ寝る時間よ」
「…流石に一緒はちょっと…」
「何?なにか問題でも?」
「ほら、世間体とかも考えて…」
「どうしてここで世間体を気にする必要があるの?ここには私と透くんの二人だけよ」
「そうですけど…!」
彼女と一緒のベッドで眠るのは色々とまずい。ここに他の人の目は無いとは言え、流石に進んで寝るわけにはいかない。かと言って彼女を床で寝かせるわけにも…
「…俺はソファで寝るっていう手は…」
「無しよ」
…聞くだけ無駄だったようだ。俺の選択肢がどんどん潰れていく。どうやら彼女は意地でも俺と一緒に寝るつもりらしい。困ったことになったな…
「…透くんは私と寝るのは嫌?」
「嫌じゃないですけど…そうじゃないんですけど…!」
この先を言ってしまったら後戻りができなくなってしまうような気がして俺はそこで口を噤んだ。愛里奈さんの表情を見るに、どうやら俺に言わせて言質を取るつもりだったようだ。なんと恐ろしいモデルなんだ…
「そう…嫌なのね…」
「違いますって!…いや、その、世間的にって点では嫌ですけど…」
「やっぱり嫌じゃない!透くんに…嫌われた…もう終わりよ…」
愛里奈さんはその瞳に闇を宿した愛里奈さんは今にも自殺しそうな表情だ。深く絶望させてしまったという罪悪感が俺の心をグサグサと突き刺してくる。ましてや相手はモデル。こんなところなんかの拍子に見られてしまっては俺は豚箱送りだ…
「べ、別に嫌いになってないですから!寝ます!一緒に寝ますから!」
「…!ならいいわ。早く寝ましょ」
なんとか彼女の機嫌を直すことができたようだ。危うく俺の人生が終わりを告げてしまうところだった…危ない。
『寝ます!一緒に寝ますから!』
「ふふ、これでまた一つ言質が取れたわね…♡」
布団の中からボイスレコーダーが顔を出した。今考える限りで一番見たくないものだ。俺の退路は順調に絶たれている。
今はこんなことを考えてもしょうがない。俺はため息を一つ吐くと、覚悟を決めて照明のスイッチを切る。
ベッドの方に向き直ると、愛里奈さんが俺を待ち構えていた。隣に来いと言わんばかりに空いたスペースにポンポンと叩いている。俺はあらゆる欲と思考を断ち切り、ベッドへと入り込んだ。
二人で寝転がるには少し狭いベッドが俺と愛里奈さんとの距離を縮める。当然体も数か所が触れ合っており、特に主張が激しい二つの柔らかな感覚は背中を通じて俺の欲を掻き立てた。
「…少し狭いですね」
「えぇ。でもこれぐらいがちょうどいいじゃない。私と透くんに距離は必要無いもの」
「…こんなところ誰かに見られたらどうしましょうね」
「その時はその時よ。もみ消すなり何なりしましょう」
多少の冗談のつもりなのだろうが、この人なら本気になればやりそうでなんだかおかしく感じてくる。行動力が擬人化したらきっとこの人みたいになるのだろう。
「愛里奈さんは頼もしいですね。俺なんかよりも一人でしっかり生きてますし」
「自分を卑下するのは良くないわ。透くんは立派よ。あんなクズな彼女にいいようにされて、挙句の果てに捨てられたというのに人を助けようとしてるもの。私が知っている誰よりも立派よ」
それがたとえお世辞だったとしても俺は嬉しかった。彼女の口からその言葉が聞けたという事実が俺の心を支えてくれる。
「…愛里奈さんのおかげですよ。愛里奈さんがいなかったら今頃酒にでも溺れてるんじゃないですかね」
「…その手もありだったわね」
「…その名案みたいに言うのやめてくださいよ。普通に怖いです」
そうだ。この人、俺を手に入れるためだったら何でもする人だった。あまりこういうことをこの人の目の前で言うのは今後やめよう。なんかの機会で活かされる可能性がある。
「ふふっ、冗談よ。好きな人を酒で溺れさせるなんて…悪くはないけど」
「悪くはないんじゃないですか。そこはきっぱりしないって言い切ってくださいよ」
「透くんに嘘はつけないもの。…酔いながら私に甘えてくる透くん…はぁぁ、たまらないわね…♡」
…想像をふくらませるのも大概にしてほしいものだ。目の前でやられてる側の気持ちを考えたことはあるのか。
「…ところで透くん」
「…なんですか。もう寝かせてくださいよ」
「なぜこっちを向かないの?」
愛里奈さんの質問に俺はドキリと胸を跳ねさせた。正直そこには気づいて欲しくなかった。もう寝たふりを決め込もうか。
「…心拍数が上がってるわね。透くん、寝たふりは私には効かないわよ」
…ダメだったみたいだ。密着しているせいか、俺の胸の鼓動が彼女に伝わっている。…ていうか心拍数で判断してくるの中々に離れ業だな。
「別に体勢なんてどうだっていいじゃないですか。…狭いんですから」
「狭いのと体勢は関係無いわよ。私は透くんと抱きしめあって眠りたいの」
「…もう寝ますよ」
「…このまま寝るんだったら、見えやすい首にでもマーキングしちゃおうかしら?」
話を無理矢理終わらせようとしたが、彼女はそうさせてくれないらしい。
愛里奈さんんお指が俺の首を伝う。添えられたその細い指は俺の首を狙っていると言わんばかりに同じ場所をぐるぐるとなぞる。
俺はまたため息を一つ吐くと、体勢を変えて彼女と向き合った。
神が作ったのだとしても美しすぎると感じてしまうその顔はまるでガラス細工のよう。
触れたら壊れてしまうのではないかという儚さを漂わせる彼女の顔に世界で一番美しいと言っても差し支えないと感じさせられてしまう。
今一度近くで見るとその魅力は他の人間とは一線を画しているのだと再確認できる。俺は見ているだけで引き込まれてしまいそうなその瞳に彼女の人気たる理由を見た。
「…これでいいですか」
「えぇ。これでようやく眠れるわね。おやすみなさい」
愛里奈さんはそう言うと、あっさりと眠ってしまった。…まったく、人のことを何だと思っているのか。こっちの気にもなってくれ。
「…おやすみなさい」
俺は眠った彼女にそう声をかけると、高鳴る胸を押さえながら眠りへとついた。
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