第3話事実と現実

 濡れた髪の毛をドライヤーで乾かす。ドライヤーから出る温風が少し心地よい。

 シャワーを浴びた俺は今日の一連の出来事を振り返っていた。クソ女に振られ、その後に気絶させられて目が覚めたと思ったら犯人が自分から出てきて、さらにはその正体が学園で一番とも名高い美少女。色々起こりすぎだろ。

 未だに地に足が付いている気がしないが、これは確かに現実だ。なぜかというと、俺の背後に彼女がいるから。


「…愛里奈さん、どうかしましたか?」


 鏡越しに見える彼女に声をかける。顔だけをのぞかせた彼女はまってましたと言わんばかりの表情だ。


「透くん、ご飯食べていないでしょう?作ったから食べましょ」


 時計を見やると時刻は0時を回ったところ。朝だと思っていたが、そうではなかったらしい。気絶をさせられていたせいか、時間の感覚が狂っている。


「いつの間に…」


 未だ彼女は信用はできないが、俺に抵抗する選択肢は無い。俺は彼女の後ろについてリビングへと向かった。



「おぉ…」


 リビングに入った途端、俺の鼻孔をスパイシーな香りが刺激した。テーブルへと視線を向けると、ルウとご飯が綺麗に半々で盛り付けられたカレーが置かれていた。


「透くんの好物はカレー。そうでしょ?」


「…よく知ってますね。一体誰から聞いたんです?」


「風の噂よ。同じクラスなのだから、このぐらいは普通に過ごしていても耳に入るわよ」


 そんなピンポイントに耳に入ることなんてそうそう無いと思うのだが、言及するのはよしておこう。ろくなことにならない気がする。


「さ、食べて。私の愛とその他諸々がたっぷり入ってるから」


 このカレーに何が入っているのか。俺の脳内はその疑問で埋め尽くされる。無いとは思うが、睡眠薬なんて入っていたら…

 募る不安と巡る疑問に俺は押しつぶされそうになるが、ここまで来て拒んだりしたら彼女が崩壊しかけない。…ここは腹をくくるときだ。


「そのその他諸々が気になるところですけど…いただきます」


 スプーンでカレーをひとすくいし、恐る恐る口に運ぶ。俺はもう祈るしか無かった。


「…え、うまい…」


 口の中に入れた途端に口の中で弾けるピリッとした辛味。そのすぐ後ろに潜んでいる肉の旨味が俺の舌にガツンと当たってくる。味をまとめ上げている野菜の甘みも遅れて伝わってきた。

 店でもそう味わえないであろうカレーに俺は思わず驚く。愛里奈さんは俺の様子を見て微笑んだ。


「当たり前でしょう?私は透くんの好みを完璧に把握しているの。この配合を見つけるまで長かったわ…」


「スパイスから作ったんだ…なんか怖いけどうまい…」


 なぜ俺の好みの味まで把握しているのか甚だ疑問ではあるが、どう問い詰めても彼女の口から答えは出てこないだろう。なぜかは知らないが、彼女を見ているとそんな気がする。

 そういえば、以前彼女がバラエティー番組で料理対決をしていたのを見た。その時彼女が作っていたのもカレー。…考え過ぎか?


「ふふ…私の手料理を透くんが食べてくれてる…ふふ、ふふふふふ…」


 …今からでも警察に突き出したほうが良いのではないだろうか。そんな気がしてきた。

 彼女の黒い瞳孔を見ているとなんだかゾッとしてくる。その整った顔立ちも相まって余計に不気味だ。まるで見てはいけないものを見ているような謎の罪悪感に襲われる。

 ふと目を逸らすと、家の鍵が目に入る。俺はこんなところには置いていない。まだ聞きたいことが残っていることに気がついた。


「…愛里奈さんは、どうやってこの部屋に?このマンションは関係者以外は住居者が中から開けない限りは入れないはずなんですけど」


「私、芸能活動をする上でなにかあるとまずいから色んなところに『避難所』を持ってるの。ここはそのうちの一つ。鍵は透くんのを使わせてもらったわ」


 …なるほど。どうやら愛里奈さんはこのマンションの住居者ということになっているらしい。だからこのマンションに入れたのだろう。鍵は俺のポケットにあったものを使った、と…


「…いやいやいや、いくらなんでも怪しすぎるでしょ。エントランスに大家さん居るじゃないですか。気絶してる俺を連れてきてなんか言われなかったんですか?」


「えぇ。大家さんももちろん私のことは知っているわ。すごい目で見られたけど、きっと見なかったことにしてくれているはずよ」


 大家さん、頼むから止めてくれ。相手がモデルで気が引けるのは分かっている。他人に口出しするような人間じゃないというのは俺も重々承知だ。だとしても気絶している人間を背負ったやつが入ってきたら止めてやってくれ。


「…そうですか。それで俺の部屋に…」


「えぇ。…もしかしてまだ警戒してる?別に危害を加えるわけじゃないんだからリラックスしていいのよ」


「…そうは言われましてもね」


 相手が愛里奈さんとはいえ、彼女は俺を拉致した不審者と言ってもおかしくはない。相手は俺のことを知り尽くしている。だが、俺は相手のことをなにも知らない。警戒を解く必要は無いだろう。

 

「…愛里奈さんは俺の事知ってるって言ってましたけど…あいつに関してはなにか知ってるんですか?」


「あいつというと、あのクソ女のことかしら?」


 俺は彼女の問い掛けに黙って頷いた。

 俺のことを捨てたあの女。未練が残っていないのかと言われたらそうとは言えない。いくらなんでも急すぎた。無いとは分かっていても嘘であって欲しいという思いは拭えない。せめて、彼女がここでこの気持ちを打ち砕いてくれることを願う。


「…いいの?聞いてもいいことは一つも無いと思うけど」


「…えぇ。覚悟の上です」


「そう。…あの女は透くんと別れた後、白崎しろさき健吾けんごという男と付き合い始めたの。名前は?」


「知ってます。3組のイケメンでしたよね」


 白崎健吾。隣の3組で女子から人気を集めている爽やか系男子だ。明るく運動神経も抜群なことから女子達の視線を独り占めしている。どうやらあの女はそのイケメンと付き合うことにしたらしい。

 やはり現実だった。俺の淡い期待は打ち砕かれた。ズキリと胸が痛む。


「どうやら、透くんを振ったのは彼と付き合うためだったらしいわね。表面上がこれが初交際。めでたくイケメンとマドンナのお似合いカップルが誕生ってわけね」


「…そう、ですか…」


「相手の健吾くんはなにも知らないみたいね。あの女、足跡はしっかりと消してるみたい。パパ活に飲酒、夜遊びはかなりやってるみたいだけど、一つも学校にはバレてないみたいね。下手したら学校側にも仲間がいるのかも」


 愛里奈さんの口から出てきた悪事の数々は俺も聞いたことのあるものから全く知らないようなものまで様々だった。俺が思っていたよりも、あの女の腹は真っ黒だったらしい。

 …待てよ、健吾は何も知らない…?じゃあ、あの動画を送ってきたのは…?


「…じゃあ、あの動画は…」


「…私も詳しくは分かっていないの。ただ、健吾くんが何も知らないのはたしかなの。彼はそういう人じゃ無いもの。恐らく、口実作りのために"そういう友達"にでも撮ってもらったんじゃないかしら?」


「…成程」


「あくまで予想ではあるけど、健吾くんはキープしてるのかもね。寝取ったのはそのお友達。私はそう見てるわ」


 あの女に利用されていたという事実。彼女の裏の顔に気づくことができなかった自分への情けなさに思わず歯噛みをした。


「…透くんは悪くないわ。利用されていただけだもの」


「それでも…俺は…」


 握りしめた俺の手に愛里奈さんの手が重なる。優しく包まれた手に彼女のぬくもりが伝わってくる。顔を上げた俺の瞳は悲しげな彼女の表情を捉える。


「どんな形であれ、失恋の悲しみは一人で背負うには重すぎるわ。人によってはこらえきれなくて道を踏み外す人もいるの。私は透くんにはそうなってほしくない。好きな人の苦しむ姿は見たくないの」


「愛里奈さん…」


「気にするなとは言わないわ。でも、少しだけでいいから私を頼って欲しい。…まだ親しくなったばかりで信用できないかもしれないけど、どうか信じてほしい」


 そう語る愛里奈さんの目は本気だった。彼女の真摯な想いが瞳を通して俺に伝わってくる。自分のことを思ってくれてのことなのだろう。今まで異性に心配されるなんてことはあまり経験したことが無かった俺は嬉しいよりもなんだか気恥ずかしかった。ましてや相手は今話題沸騰中のモデル。ドキドキしないはずがない。


「…えーっと、その…はい。頼らせてもらいますね」


「えぇ。十二分に頼って頂戴。透くんの願いだったら足だって舐めるわ」


「それは流石にやめてもらって…それであの、手始めに一つ…いいですか?」


「何かしら?」


「…その鍵、返してもらえます?」


 俺が指刺した彼女の手には家の鍵が握られている。先程どさくさに紛れて握ったのを俺は見逃さなかった。このままとられるといろいろとまずい。自由に侵入されるのは危険だ。


「…それは無理なお願いね」


「ちょっと」


「…透くん、この世になんでもは存在しないわ」


「さっきの話はなんだったんですか。ちょっと、目逸しても無駄ですよ」


「はぁっ、と、透くんが私のことを見てる…♡」


「…なんなんだこの人」

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