第2話目覚め
「…んぅ……ぅ…ぁ」
朦朧とした視界の中、意識が浮かび上がってくる。見覚えのある天井が俺の視界に映る。白い無垢な天井。何も存在していないかのように錯覚させてくるその色に俺は瞬きを何度か繰り返す。そうしているうちに意識も戻ってきた。
体を起こすと窓から差し込んできた日光が目に入る。窓際に置かれた観葉植物。開かれたままのクローゼット。床にずり落ちた布団。いつもの寝室だ。
どうやら悪い夢を見ていたらしい。ここはどう見ても家だし、愛里奈さんの姿も見当たらない。現実なのだとしたらいくらなんでも急展開すぎだ。
しかしどこまでが夢だったのだろうか。昨日バイト先にまで行ったのが夢なのか、それとも振られたことすらも夢だったのか。できれば後者であってほしい。
俺の悶々とした感情は収まる気配が無い。ただ一つ言えるのはこの胸の痛みには覚えがあるということだ。
とりあえず朝ごはんを食べるとしよう。考えるのはそれからだ。なんにせよ、あの出来事自体は夢であったに違い無い。とりあえず、リビングに…
ジャラリ
…ジャラリ?
俺の耳が聞き覚えの無い音を捉える。その途端に手首に主張してくる異常な冷たい感覚。謎の違和感に俺は手首に視線を落とした。
「…は…?」
俺の視線の先にはこれでもかと存在を主張してくる手錠がかかっていた。その手錠は頑丈そうな鎖に繋がれており、その鎖はベッドに繋がれている。…これってもしかして…拘束されてる?
「…なんで手錠…?ていうかなんで鎖まで…?」
突然の謎の状況に頭を困惑させる俺。時計をよく見ると、時刻は23時。まだ朝じゃない。
「目が覚めたみたいね」
困惑する俺の耳に凛と透き通る声が入ってくる。声の方に目線を向けると、そこには夢に出てきていた愛里奈さんだった。その服装は夢に出てきた時と同じ服装でまさかという考えが浮かんでくる。…いや、まだ判断するには早計だ。なにかの間違いという可能性だってある。
「愛里奈さん…?」
「…倒れていたみたいだったから運んできたの。あんまり頑張り過ぎも良くないわよ?バイトなのはわかってるけど…」
「えーっと…?その、まずなんで愛里奈さんが俺の家に…?」
「え?何言ってるの?…といいうかそのさんづけは何?彼女なんだから彼氏の家にいたっておかしくないでしょ?」
「…愛里奈さんが…俺の…彼女?」
「えぇ、そうよ。…もしかして頭でも打ったの?」
心配そうな目で見つめてくる愛里奈さんを前に俺は困惑した。愛里奈さんが俺の彼女…?いや、ないないない…
相手はあの甘寧と並ぶクラスのアイドル。モデル活動も行ってるぐらいの美少女だぞ?何がどうしたらこんなことになるのだ。
何よりも残念なことに俺はあのクソ女との記憶を持ち合わせている。だから、こんなことはありえないのだ。
「…どうしたの透くん?やっぱり…」
「…なんでここにいるんですか愛里奈さん。俺はあなたの彼氏じゃありません」
俺の言葉を受けた愛里奈さんは俺が記憶を持っていたことに驚いたのか、目を見開いた。その後すぐにがっかりした様子で目を伏せる。
「…そう。記憶は明白ね。なくなっていたほうが都合が良かったのだけれど…まぁいいわ」
それまでただの違和感しか感じなかった彼女の存在がとんでもなく怪しいものに思えてくる。彼女のいいぶりだと夢の出来事は現実だ。俺は愛里奈さんに意識を落とされた後、ここに運ばれてきたらしい。
とどのつまり、彼女はただの…不審者ということになる。
「そんなに警戒しないで頂戴。別に取って食うわけじゃないんだから」
「そうは言われてもですね…こんな手錠を付けられて、家に勝手に上がられている時点で怪しさ満点なんですよ!」
手錠によって行動範囲は限られているが、俺はできるだけ彼女から距離を取る。彼女は侵入者。凶器を隠し持っている可能性だってある。対話は慎重に進めなければ。
「単刀直入に聞くわ。透くん、あなたあの女に振られたのね?」
俺は彼女の一言に背筋を凍らせた。彼女はよりによって俺が思い出したくもないような嫌な情報を持っているらしい。どこまで知っているんだこいつ…
「…なぜそれを?」
「まずは質問に答えて。…振られたのよね?」
「…そうですよ。振られましたよ。あっさりとね」
「…ふふっ、やっぱり」
俺の返答を聞いた愛里奈さんはその口元をわずかに開いて微笑んだ。張り詰めていた緊張の糸が解ける。それもつかの間、彼女の瞳の真っ黒な瞳孔がこれでもかとばかりに開かれる。美しさを吐き捨て、一気に不気味さを増したその表情に俺は再び背筋を凍らせる。
「ふふっ…あははっ…やっと…やっとなのね…」
「…な、なにがおかしいんです?」
「いや…おかしいんじゃないの。嬉しくて…」
「…嬉しくて?」
首を傾げる俺を前に愛里奈さんは狂気的な笑みを浮かべる。普段テレビで見るような気品と魅力に溢れた彼女でも、学校でたまに見かける息を呑むほど美しく、クールな彼女でもない。誰も知らない彼女の一面。
まるで口裂け女が素顔を堂々と晒して笑っているような違和感。化けの皮が剥がれた狐を見てしまったような謎の罪悪感。雷が脳天に直撃したような衝撃。それらすべてが俺に一気に襲いかかってくる。
「…私、透くんの事ずっと見てたの。ずっと、ずっとね」
すべてを見透かしたような目で俺を見つめてくる愛里奈さんに俺は思わずたじろいだ。なぜ彼女が笑っているのか。なぜ彼女は俺の事を知っているのか。なぜ彼女はこんなにも嬉しそうなのか。俺には分からない。分からないことだらけだ。
「それはどういう…」
「これを見て」
愛里奈さんの手に握られたスマホにある映像が映し出される。そこには俺と愛里奈さんの姿が写っていた。つまり、今この場の映像だ。この部屋を斜め上から部屋全体が映るように撮られている。
「な…ここの部屋!?」
「ふふっ、そうよ。他にもリビング、風呂場、トイレなんかの映像もあるわ」
背筋を伝う嫌な寒気。繋がった要因が彼女を最悪の存在へと昇華する。彼女は不審者なんてもので片付けていい人間ではない。本能がそう叫んでいる。
「もう分かったかしら?あなたの行動はすべて私に筒抜けってわけ」
「…なんでこんなこと」
「なんで?…なんでって、好きだからよ」
「…え?」
「透くんのことが大好きだからよ」
その瞬間、俺の時は止まった。張り巡らされていたありとあらゆる思考が彼女の一言により停止する。俺は耳を疑うしかなかった。
「すーき。だーいーすーき」
「いや聞こえてますから。…いやなんて?」
「だから、好きだからよ。私は透くんのことが大好きなの」
「…いや、どう考えても、地球が何回回ったとしてもおかしい話なんですけど。まず俺と愛里奈さんって接点無いですし…」
「…もしかして忘れたの?あのカフェでの出来事」
「…カフェ?」
カフェと言ったら、shadeのことだろうか?俺の記憶ではあの店には彼女は来店したことすら無いはずなのだが…まさかまた捏造だろうか?
「あの日、撮影で失敗続きだった私を励ましてくれたのは他でもなく透くんだったじゃない。…こうすれば、分かるかしら?」
愛里奈さんは帽子を深々と被り、マスクをつける。昨日出会った時と同じ格好だ。その姿は俺の記憶を脳の奥底から掘り起こした。
ある土砂降りの雨の日のこと。かなり疲れた様子で入ってきたものだから何かあったのかと悩みを聞いた女性がいた。どうやらそれが彼女だったらしい。俺の記憶の彼女と目の前の彼女が合致する。
「あぁ、あの時の!」
「…思い出してくれたかしら?あの日、あなたに出会った私は強く惹かれたの。あなたのことがもっと知りたくて、私はあの日からモデル業の合間にあなたのことを探ったの。誕生日から血液型、好きなお菓子に好きな本…知れば知るほどあなたのことが好きになっていったわ」
「…そんなこと、どうやって…?」
「…芸能界にはいろんな人がいるの。そういうことよ」
いや納得がいかないんだが…この人後ろめたいからって誤魔化したな?
「私はこの感情が抑えられないくらいにまで胸の内に秘めていたわ。仕事の合間にあのカフェに行くのが私の楽しみだったの。そしていつかは透くんの彼女に…と思っていたのもつかの間だったわ」
彼女の声色が急に低くなる。それと同時に彼女の瞳から光も抜け落ちていった。こころなしか周りの空気も重く、ジメジメとしたものになっていく。
「…あの女を見た時は絶望したわ。あんな女に先を越されているなんて…」
「あ、あの女って…」
「それに加えてあの女は透くんに易々と酷いことを何度も…あの怒りは今でも忘れられないわ。腸が煮えくり返りそうなあの思い…思い出すだけで怒りが込み上げてきそうよ」
「そうですか…」
一人で盛り上がる彼女を前に俺はただ呆然とするしか無かった。
「…ごめんなさい。今まで助けてあげられなくて…私にも一応立場というものがあるわ。だから、下手に手出しをして騒ぎになれば私だけじゃなく透くんにまで被害が及ぶわ。だから助けることはできなかったの。ごめんなさい…」
「いや、そんな謝らなくても…」
「いいえ、これは私の罪。償うべき罪なの。愛する人を助けることのできない、無力な自分を呪うためのね」
そう謝る彼女の顔は真剣だった。そこには一切の邪念も入り混じっていない。俺への真摯な気持ちが現れていたのだ。
そう思ったのもつかの間、彼女の瞳は再び闇に落ちる。
「でも、もう安心…ようやく合法的に透くんを私のものに出来る…♡」
愛里奈さんは俺に絡みつくように抱きつくと、俺を壁際にまで追いやる。俺を逃すまいと巻き付いてきたその腕は俺の動きを完璧に封じる。ふわりとバニラのような、まさにクレマチスの花のような香りが俺の鼻をかすめる。
「ちょ、愛里奈さん???」
「ねぇ、透くん…今すぐ私のものになるって言って…♡私に誓いの口づけを…♡」
愛里奈さんの顔がゆっくりと近づいてくる。艷やかに光るピンク色の唇が俺の目線を離してくれない。彼女の闇に落ちた瑠璃色の瞳は俺を捉えた。
「ちょ、ストーーーーーーーーッッップ!」
「むぐっ!?」
迫る彼女の口元を俺は両手で覆って止める。ギリギリで踏みとどまった俺は彼女を少し強引に押しのけた。
「はぁ、はぁ…俺、まだ愛里奈さんの事なんにも知らないし、好きかどうかで言われたら今ははっきり好きと言えません。だから、もう少しお互いの事を知ってから…」
「あ…あ…」
「…愛里奈さん?」
「透くんに…ふられ…た…」
崩れ落ちた彼女は大粒の涙を流し始める。俺は彼女を泣かせてしまったという事実からの罪悪感ととなぜという疑問に挟まれて完全にテンパってしまった。
「え、ちょ愛里奈さん!?そういうことじゃ…」
「嫌だ…嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
「ち、違う!振ってない!振ってないです!」
「え…そう…なの…?」
「そうです!…今ははっきり言えないってだけで…好きか嫌いかで言われたら好きです!」
「…そう、なのね。なら良かったわ」
…焦るあまり告白みたいなことをしてしまった…愛里奈さんを落ち着かせることには成功したものの、これでは言質をとられてしまったようなものだ。非常に困ったことになった…
「これで晴れて両思いね。ついに、ついにやったのね…」
「やっぱこうなりますよね…」
「今日から私は透くんの”妻”よ。これからよろしくね」
「いきなり妻…?マジですか…?」
「えぇ、
俺は募る不安と未だ残る夢であって欲しいという思いでぐちゃぐちゃになりそうだった。
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