第21話

その青年は、極度の引きこもり、と世間には言われていた。

 締め切られた窓に厚いカーテンを引き、夏場でも上着を着てエアコンもつけず、部屋にある水槽と、大きな机、その上に置かれた菩薩像一体と、それからその二つを見られるベッド一台。あとの空間には、空いている隙間が恐ろしいと言うように本が積まれていて、外へと通じる唯一の扉の前にも溢れ、換気もしないせいでカビ臭かったが、しかし自分の臭いだけが充満しているせいか、妙な安心感があった。


「まだ、死ねない。」


他人の目から逃れるようにして始めた執筆活動のせいで、彼は菩薩像の隣に置かれた抜き身のナイフで心臓を貫くこともできなかった。


「これを、仕上げるまでは。」


ベッドの上でうずくまり、目を血走らせ指先だけを忙しなく動かし続ける。こんな生活に転落してからどれだけ立つのかしれない。彼は長く伸び、干からびたような髪や髭に気を遣うことなく、狂ったように一点だけを見つめ、内情を吐露するように紙へ向かう。そして、ようやく半ばまで書き上げると、また今度は違う話を思いついて猛烈な心血を注いだ。


その行為は文字通り命を削るようなもので、病人のように痩せこけ、少しだけ疲れると、黄ばんだ目を、今度は水槽の方へと向けた。


鮮やかな熱帯魚が、本の合間を悠々と泳いでいる。しかしその中のただ1匹だけが、何か変な動きをしていた。

コンゴネオンテトラという、光を受けると輝くその魚は、わずかに体を痙攣させながら、浮上しようともがいてはまた沈んでいく。飼育に疎くとも、それがもう死ぬのだとわかった。


血走った目を大きく見開いて息を詰めていると、浮上の回数は徐々に徐々に減り、周りを泳ぐ魚たちは心なしか心配そうに通り過ぎていく。


しばらく奮闘していた魚は、尾が曲がった状態で、動かなくなった。いつもはそのまま掬い上げるのだが、この時異様な好奇心を抱き始め、いつか誰かが放り込んだタバコの箱を開けた。普段とは違う狂気のような興奮に血が巡り、頭がくらくらした。彼はタバコの葉を、水槽に落とした。


彼は恍惚とした表情で、次々と息絶えていく鮮やかな魚を見守った。それはまるで毒薬のように脳の神経を侵し、哀れな魚たちの最後の、静かな叫びを快感に変えた。

 毒と死に満たされた水槽の隣では、しかし相変わらず菩薩が謎めいた笑みを浮かべている。彼はそのことに慄然として、ベッドに座り直した。



次はどんな猫おもちゃを買って行こうかと悩みながら、綺麗なボンボンの包み紙を開き、ふと顔を挙げると、真っ白な瞳がこちらをのぞいていた。


「・・・依頼さ、思ったんだけど、本当に毎度毎度あのヘンな黒い魔物の仕業っぽいのばっかりだよね。」

「当たり前だ。お前の持つ魂の力を使い、面白おかしく世界を渡り歩いているわけだからな。全く、親の体を集め切るまで返さないなどという契約を持ち込んで来る妙な妖を信用するとは、どんな神経をしている。」

「まあまあ、落ち着いてよ。」


白蛇の口に、市販のアーモンドチョコレートを放り込むと、コリコリと美味しそうな音をさせている。


「これ美味しいよねえ。」

「・・・酒入りのやつがいい。」

「わかったわかった。はいこれ。包み紙は取っておいてよ?綺麗で好きなんだ。」

「全く、そうやって集めた骨董品が山になっているんだが?」

「売ったら結構な値打ち品のものもあるだろうね。あーあ・・・三峰のお菓子が食べたいな。この間いっぱい食べたから、もうないんだって。」

「ふん、最近はそうでなくとも、猫にかこつけて訪うくせに。」

「だって、とられそうで怖いんだもん。」

「獣に取られるはずがないだろう?」

「いやいや、あの猫ちゃんはなかなかのものだよ。下手な人間よりよっぽど情に厚くて勇敢で優しい。ぼんやりしていたら、三峰も吸血鬼君も構ってくれなくなっちゃいそうだ。」


それは、もともとあまり関わるつもりがなかったせいではないかと、白蛇は思う。特に、「友人」の枠内で収まる小室のようなタイプは菱津もほどほどに関係を維持して行く傾向があったが、少しでも心動く様なことがある時には、彼は決して一線を超えて踏み込もうとはせず、相手が若いうちに、どこかへ姿をくらませてしまう。


「・・・・・共に生きようとしないなら、取られて当然だな。」

「そう・・・・・それは、そうだけど。でも、まだ時間はかかるよね?」

「いいや、体の部位はあと二つだけだ。お前が行こうとしないから、私が回収した分もあるしな。」

「そっか・・・そう。・・・・・まあいい。仕方ない、とにかく今回の仕事へ向かおうか。」


考えたくないことも、考えた方がいいことも先延ばしにして、菱津は部屋から出ていった。



外に出ると、這っているのは青白い帯で、菱津は少し嬉しそうにそれを辿り始める。

「なかなかのセンスじゃない?この道。」

「確かに、糸だの蛍だのよりは辿りやすいな。」


そんな他愛無い話をしつつ、地下から出る扉を開けた瞬間、「地下86階」の表示が見えて青ざめた。

「大丈夫?こんなところに人が入って。」

「・・・・わからん。」

これまでの経験上、ある程度の常識や外見がずれていても、物理的な法則は変わらないのは地下10階までで、二桁に入ると「竜の爪」やそれ以上にひどい現象の見舞われる可能性が非常に高かった。


「三桁に近いじゃん。ねえ、言葉通じる?五体満足で帰れる?」

「・・・・・お前なら大丈夫だろう。それより、よく覚えているな、これまでの経験なんて。」

「あのねえ君、僕の頭がスポンジかザルとでも思っているわけ?僕はただ、他人から強制されて思い出すのも嫌なら、新しい場所が少なくなるのも嫌なだけなの。つまり、記憶していても、普段それを活用しないだけ。わかる?人間の脳は思い出したい時に思い出すようにできているの。普段別に思い出したいとも思っていないから、なにもわからないだけ。」


その発想そのものが阿呆だと頭の中でツッコミを入れつつ、先導して階段を登り始める。


「あ、ダメダメ、絶対開けたら駄目やつだよこれ。」

目の前にある扉は薄紫色のモヤがかかり、明らかな刺激臭に顔を顰める。

「依頼やらなきゃ駄目?死ぬよこれ?」

「生活できなくなっても良ければな。」

「吸血鬼君と一緒に暮らすよ!親に捨てられて路頭に迷ったとか言えば、きっと三峰も保護してくれるよ?ねえ帰ろ?帰ろ?」

「ふん、よかったな、都合のいい保護者がいて。」


と、苛立ち紛れに扉を開け放ち、菱津を蹴って放り込んだ。薄紫の濃霧を思い切り吸い込んでしまった菱津は、そのまま気を失っていた。



次に目を覚ました時、顔に違和感があると思って触れてみようとするが、鉛のように重くて、とても動かせそうにない。


「菱津殿とは、貴様でよかったな。」


目線だけなんとか動かしてみると、二つの人影がゆらゆらと肩を寄せ合っている様に見える。


「ああ、喋ろうとしないでいい。無理に動かそうとすれば、貴様の体は粉々になって、ここの住人の様になるから。」

「ご主人様、お早く。」

「ああ、すまない。・・・実は先日、妙な魔物がこの世界に入り込み、ここの薬を少しばかり拝借して行ったらしいのだ。これは不老不死にも通じるそれだが、かなりの副作用がある。貴様に頼みたいのは、その薬の回収だ。」


白蛇は何か聞きたいことがあるだろうと、菱津の方に目を向けると、やはり何か言いたげだった。

(眼球越しに・・・はわからないか。)


「言葉を通じさせるためには、どうすればいい。」

「確かに話せないのは不便か。ならば、前報酬として、意思を伝達する薬をやろう。」

「感謝する。」

早速動く影が菱津に薬を含ませると、白蛇の耳に、バカだアホだといった言葉が散々に垂れ流された。


「おい。」

「ごめんごめん。ちょっと楽しくなっちゃってね。じゃあ、質問を。その薬というのを、どうやって回収するのかな?」

尋ねてみると、先方も何度か頷き、香水の瓶の様なものを取り出した。


「これは以前、どこかの階層からか渡ってきもので、しっかりとした実態がある、が、難点を言えば知能もなければこの世界の誰とも意思伝達できないことだな。」

「それ普通じゃないかな・・・ま、いっか。それじゃあ、その毒・・・薬が、どんな形で存在しているか、わかる?」

「薬は、人の体内に入っている。」

菱津は、思わず顔を顰めた。これは、非常に面倒である。

「まさかと思うけど、人の体を壊せとか、言わないよね。」

「いや、その必要はない。薬は狭い場所を好むのだ。その閉じられた空間を開け放ち深呼吸でもすれば、勝手に薬は抜ける。」

それからしばらく話し合いは続き、今回の応酬は、この世界に体を耐えられる様にする薬、ということで決着した。


「そんなのもでよかったのか。」

「ここの砂糖菓子なんて食べてら、食中毒になりそうだから。」

女の様なものが口に注いでくれたのを見届けると、体を起こした。

「ここには、実態はないんだよね?」

「ああ。」

不思議なくらい、楽に体を動かせるようになり、立ち上がろうとすると、地面というものがあるのかも疑わしいような、足感覚だった。

「意識体だけが浮遊している様なものだ。普段はこうして影を作ることもないが、不便だと思ってね。」

ひとまず別れ、薄靄しかない世界を歩いた。

「案外怖くないね」

「普通ならあの時死んでいるんだ。ここは死の国だからな。」

その響きに、嫌な感じがした。まるで、あちこちの次元で死んだ魂が、ここまで落ちてきて毒を吐いているような気がしたのだ。

「死にたくないか。」

「理不尽な死はお断り。」

菱津はそう言って笑った。



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