第4話
午前10時42分、しんとした家に1人きり。すべきことは何もない。
自室にこもり、ベッドに座り込み、白い壁に背中を預けて両膝を立てた。向かいの壁際に設置してある作業デスクの上で、開きっぱなしにしてあるラップトップの黒い画面が室内の風景を反射している。
そのデスクにはオフホワイトのゲーミングチェアが収まっているが、そこには座りたくなかった。座ってしまえばなにか作業をしなければならない気分にさせられるし、今はそんな気分にはなりたくなかった。
デスクの端で日光浴をしている時計が3分進んだ。10時45分。
私の頭は空っぽだった。いつもはうるさく頭の中を這いずりまわっている言葉は、どこか遠くへ出ているようだ。もしかしたらラスティと一緒に火星に行ったのかもしれない。
同調効果実験の仕掛人よろしく空中をぼんやり見つめ続け、気づけば11時31分だった。
気がついたのは腹が鳴ったおかげだ。現実味のない喪失感とは無関係に機能してくれている生命維持の本能に少なからず感謝した。空が暗くなる前に時間を確認できた。
私はこれを無視してベッドに座り続けようかと考えたが、もう一度鳴ったとき、空の胃が痛んだ。
ベッドから脱出してジャケットをはおり、空腹を満たせるものを買いに外へ出た。事前にラスティが食料を買い込んで冷蔵庫や棚に詰めておいてくれたが、簡単な調理すらしたくなかったし、陽光と風を浴びたい気分だった。
玄関ドアを開けると、いかにも秋らしい柔らかい風が静かに吹き込んだ。前向きなため息をついた。
住宅街に入ると、どこかの家からクリームソースの匂いがした。シチューだろうかパスタだろうか。メニューが何であれ、こういう匂いは好きだった。一家団欒の、優しくて懐かしい匂いだ。
ふふ、と口の中で笑い、少し軽くなった足が速度を上げた。
コンビニに入ってサンドイッチを物色していると、ジャケットに入れたモバイルが1度振動した。
確認すると、ラスティからのテキストだった。
『もうすぐ火星へ出発します』
そのすぐ後にURL。タップしてリンクを開くと、カメラで自分を写したラスティの顔が表示された。
『ユキさん!』
「ラスティ!」
リアルタイムで繋がっていることに驚いた私は目の前のサンドイッチを手に取り、急いで会計を済ませてイートインスペースに滑り込んだ。まだ離れて半日も経っていないというのに過剰にはしゃいだ気分を落ち着かせ、店内ラジオに紛れるくらいの声量で話しかけた。
「どうしたの、今はどこ? 忘れものでも?」
『地球です。いいえ、忘れものではありません。ただ、許可が降りたので少しお話を』
それからラスティはこのプロジェクトにおいて、私たちに関係のある制約などをいくつか教えてくれた。
プロジェクトは極秘であり、対外的には単なる火星探査ということになっているため他言無用であること。緊急連絡先は私であること。そして、地球単位で1日に1通なら検閲されずにテキストの送信ができること。
『それから……ああ』ラスティは整った眉を八の字にした。『すみません、もう時間がないようです。そろそろ切らないと』
「うん。次は火星についたら」
『はい。そのときまで少々お待ちください』
通話を切り、モバイルを机に伏せた。ラスティとは決して離れ離れにならないと安堵し、多幸感に満たされながらサンドイッチのビニールをむいた。
そこから先の、私の孤独な日常は省略させてもらう。だって、つまらないでしょう?
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