第3話
ラスティが旅立つ日を知ってから、特に慌ただしくもない時間が1日と数時間過ぎた。表面上は大した変化もなく、その間に私は時折唸り声を上げなが完成させたレポートを教授のテキストボックスへ送信し、ラスティはプログラムに従い家事をこなした。
しかし私の心中は穏やかであったとはとてもいえない。何かの拍子に時計が目に入るたびに、ああ、あと何時間後にはラスティは地球からいなくなってしまうのかと寂しさに心臓は痛み、ラスティが皿を洗ったり洗濯物を干したりしている姿を見かけては、しばらくの間はこれらの音を聞きながら作業することができなくなるのか、とため息をついた。
止まりも急ぎもしない時間は、じわじわと喉笛を押し潰していく悪趣味な拷問を連想させた。痛いし苦しいが、まだ死んではいない。
死が間近に迫ったその日――つまりラスティが旅立つ前日――の夜、普段と変わらないディナーを済ませた後、私はほとんど無意識のうちに窓の外を眺めた。
満月から5日分ほど欠けた月が銀色に輝いていた。
「ラスティ、夜空がすごくきれいだよ。一緒に散歩しにいこうか」
「いいですよ、もちろん」ラスティは食器を洗剤を混ぜた水で満たしたおけに沈めながらいった。「その格好では少し冷えるでしょうから、ジャケットをはおって準備しておいてください」
言われた通りにラックからグリーンのボンバージャケットをとり、はおって玄関ドアの内側で彼女を待った。しばらくして、エプロンを外したラスティが現れた。
私たちは外に出た。
「心の準備……というものですか?」
案の定、空気は澄んでいて冷えている。ラスティの声はストレートに響いた。
「なにが?」
「この散歩が、です」
耳の奥が痛くなるほど静かな住宅街に2人分の足音だけが鳴る。等間隔に並べられた街灯が通りを照らして、前を行くものは生物も無生物も存在していないのだと証明した。世界に私たちしかいないような錯覚に陥りそうだった。
「……ああ、そうだね」私はいった。「そんなつもりはなかったけど、多分無意識に心の準備の仕上げがしたかったのかもね」
「星がきらきらしています。あと約17時間後には――」ラスティはすっと夜空を指さした。「あそこに」
見上げると、濃紺の空には街灯に負けない星々が瞬いていた。指先を追って延長線上をたどると、月の近くには赤く輝く他よりも大きな星が悠然として見えた。
「信じられないな。なにもかもがあっという間だね」
「はい。火星での生活は短いですがきっと驚きと発見の連続でしょう。ユキさん、報告を楽しみにしていてください」
「もしもラスティが毎日テキストを送ってくれるなら、毎朝欠かさずチェックするよ」
「それは不可能かもしれません。恐らく私のテキストは一度検閲にかけられるでしょうから、届くまでに時間がかかるでしょう」
「例えばの話だよ」
適当な角を右に曲がって、私たちは家路に着いた。
自室に入ってラックにジャケットをかけ、ベッドで毛布を頭まで被り、暗闇の中で目を閉じた。
階下でラスティが動いている音が聞こえる気がした。
ラスティにもアラームにも起こされずに目が覚めた。ただ単に眠りが浅かったのかもしれない。
ベッドから出てキッチンに入ると、ラスティがテーブルに料理を並べていた。
「おはよう、ラスティ」
「おはようございます、ユキさん。今日は早いですね」
「うん、目が覚めたんだ」
ラスティと私は席につき、静かな朝食の時を共にした。ロボットに対して必要ない気遣いかもしれないが、余計なことをいろいろ喋って彼女を不安にさせたくなかったのだ。普段通り、いつもと変わらないような雰囲気で送り出す。これが地球に残る主人として私ができる適切な振る舞いだ。
食事が済んで、提出期日の近いレポートもないので午前中はなにか映画でも観て過ごそうかとスウェットのサイドポケットからモバイルを取り出し、動画配信アプリをザッピング感覚でスクロールしていると、
「ユキさん、そろそろ出発いたします」
いつの間にか旅立つ用意を済ませたラスティに声をかけられた。黒いワンピースも白いエプロンも身につけておらず、代わりにプレッピーなブレザースタイルに変身していた。真面目で伝統的な印象を与える服装だが、アンドロイド特有のピンクブラウンの髪と赤いカメラアイとはどこかちぐはぐで違和感が拭いきれなかった。
「ああ、もうそんな時間なんだね」
私は立ち上がり、彼女に続いて玄関に向かう。キャメル色のリュックサックが内側から少しボコボコと変形させられていた。恐らく予備のバッテリーだろう。彼女は遠出をするときにはいつでもそれらを持ち運ぶのだが、今回は多めに用意したようだった。
玄関ドアの前、ラスティはくるりと振り返った。
「では、いってきます」
「うん、ああ、少し待って」
彼女に近づき、力強くハグをした。私の口よりわずかに低い位置にあるラスティの耳に、「がんばって、気をつけて」と言葉を吹き込んだ。
「はい」と彼女はいった。近くで聞いた彼女の声はザラザラと硬質で、口ではなく喉から聞こえた。
勇気づけるつもりでラスティの背中を拳で叩き、腕を解いて彼女を解放した。
「引き止めてごめん、いってらっしゃい」
「はい、では」
ラスティはにこりと笑い、ドアを開けて出ていった。
オートロックがかかる音を最後に、部屋の中から音が消えた。
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