さようなら、さおり

馬村 ありん

 ひとつだけ確かなのは、さおりが私たちの元から抜け出して新たな人生をはじめようとしていたということだ。


 木魚をたたく音と、さざめく泣き声を背に、焼香台の前に立った。ご焼香が立てる紫色の煙の向こう、遺影に収まったさおりは顔いっぱいに笑みをたたえていた。それはスポットライトの輝くステージでパフォーマンスをしていたころの姿そのままにまぶしかった。


「さおり、さようなら」


 私はさおりに永遠の別れを告げた。


「――ちょっと舞」


 肩を揺する手に振り向くと、サエが眉根をよせた表情で立っていた。サエは背後を一瞥いちべつした。サエのさらに後ろに多くの人が並んでいた。自分でも気がつかないくらい長い間そこにいたらしかった。


 元いた席に戻ると、隣のななかが私の髪に手のひらをふれさせた。


「わかるよ。舞ちゃんも悲しかったんだね」


 熱い涙に溶かされたアイシャドーがななかのほほを流れ落ちた。私がななかの手にふれると、ななかは強い力で握り返してきた。手首に食い込む指先。二度と放してくれないんじゃないかというぐらい強かった。



*************


「これからさ、どうする?」


 葬儀の後立ち寄ったカフェで、サエが言った。その視線は、カフェオレが注がれたカップの上に置かれていた。カップのふちは一度も口をつけられていない。まるでその細長い両指を温めるためだけに注文されたかのようだ。


 この質問が、単純に今後の予定を聞いているわけでないことは明白だった。


『県警がさおりを発見した。くぼが証言した通り、雑木林のなかに埋められていたようだ』


 あの日、マネージャーはそう言った。私たちはライブハウスでの公演を終えて、汗まみれの衣装のまま楽屋に戻ってきたところだった。

 

『グループの存続についてお前たちの意思確認をする必要がある。グループを存続するか、しないか。どっちがいい?』


 さおりと永久に会えなくなったことに動揺していた私たちは、返答を保留した。マネージャーもそれを予期していたのか、追及はしてこなかった。『お前たちの連絡を待つ』とだけ言い残して立ち去った。


 サエの問いかけは、マネージャーの返答に対して何と答えるのかを聞いているのだ。


「わからないよ」


 うつむいたまま、ななかが言った。さおりの話をするたびに涙を流していた彼女だったが、いまは泣いていなかった。涙も枯れ果ててしまったのかもしれない。ただただ重苦しい表情をその顔に浮かべていた。


「どうしたらいいのか。なんだか空っぽ。あんな別れ方をするなんて想像すらしていなかった。さおりちゃんが失踪したって聞いたときは、彼女のためにも頑張ろうって気がわいてきた。でも、さおりちゃんは私たちのことが苦痛だったってことだよね」


 カフェのテーブルの上に沈黙が広がる。天井のスピーカーから流れるBGMは水の壁越しに聞こえてくるようにぼんやりとしていた。


 さおりの遺体が発見されて以降、メディアが関心を持ったおかげでたくさんのことが明らかになった。報道によると、彼女はグループ内で孤独を感じていた。そんな折、運命を感じた相手に出会った。それが窪だった。駆け落ちして二人で暮らすことに決めた。


 でも、さおりはその死の瞬間までわからなかった。窪がやくざに借金を重ねた精神異常者サイコパスであったことを。ふたりきりになった後、窪はさおりの首を絞めて殺し、遺体を雑木林に埋めた。同棲のために貯めたお金は、窪の借金返済にそのまま充てられた。


 大雨の後で、死体が見つかり、携帯が見つかり、通信記録からすべてが明るみになった。そういう顛末てんまつだ。


「さおりがいないグループか」サエは言った。「さおりがいなくなってから半年間頑張ってきたけど、この先のことは何ひとつ想像できない。ねえ、私たち、気持ちはひとつだと思っていた。メジャーデビュー、単独公演、武道館……。目標のためにいろいろなものを投げ出してきた。そうすることが楽しいんだって感じてきた。みんなも同じ思いだと思って接してきたんだけど、さおりはそうじゃなかった。ねえ、さおりを追い込んだのは私たちなのかな」


 記憶のなかのさおりはいつも笑っていた。私とサエが意見の相違で対立してピリピリしているときも、仲裁してくれたのはいつもさおりだった。納得のいかないライブに落ち込んでいるときだって、私たちを励ましてくれたのはいつもさおりだった。


 の二文字が頭のなかに浮かんでは消えた。どうみてもそれしかないというのに、言葉にするにはとてもとても重かった。


 電話の音が沈黙を切り裂いた。ディスプレイに表示された名前に、私は驚愕した。私がその名をよみあげると、サエもななかも顔を真っ青にした。電話はさおりからだった。



***********


 部屋のなかにはいったとき、押し寄せた感情に胸が押しつぶされそうになった。さおりのにおいがする。さおりがすぐそばにいる気がした。もちろんそんなものは幻想でしかなく、さおりのお母さんがカーテンを引く音で我に返った。


「ごあいさつが遅れましたけど、お電話くださり、ありがとうございます。大変な時期だと思いますのに、こんな機会まで設けていただけて、なんというか――」


 サエがうやうやしく頭を下げた。ななかも私もサエにならった。


「いいのよ」


 私たちに探るような視線を向けた後、さおりのお母さんはすぐに目をそらした。


「どこでもいいわ。座って」


 床にはイチゴ色のカーペットが敷かれていた。木製のローテーブルを囲むようにして腰をおろした。部屋を見渡した。イチゴミルク色の壁紙、カーテン、カーペット。幼年期から使っていたと思われる学習机の上は化粧品置き場になっていて、壁には失踪前まで身に着けていたと思われるセーラー服が掛けられていた。


 さおりのお母さんは一冊の日記帳をもって戻ってきた。革の表紙の赤い日記帳で、長いこと使っていたようで手垢にまみれていた。お母さんの手が表面をなでた。まるでそれがさおりの体の一部でもあるかのように。


「それがさおりの日記帳ですね」


「そう。あなたたちに読んでいってほしいなと思ったの。あの子の気持ちを少しでも知ってもらうことができればって」


「失礼します」


 日記帳を受け取った。大半は日常のことだった。見たテレビが面白かったとか、クラスのだれだれのいった話が面白かったとか。週末近くになると、書き込みがすくなくなる。


「なんだか……」


 ななかが苦虫を飲み込んだような表情をした。


「ええ。私たちの話題がないわね」


 私たちのグループの話は一切なかった。練習のつらさを、それを乗り越えたときのさわやかさを、ライブの興奮を、なにひとつ残していなかった。どこにも、一文字だってなかった。


 私たちは顔を見合わせた。二人の顔から表情という表情が抜け落ちていくのが見て取れた。


 ページをめくる。ページが終わりに近づいてくるにしたがって、窪についての記述が多くなってきた。窪はさおりの個人的なキリストのようだった。彼がどれだけ優しく彼女を見つめるか、どれだけ優しく触れてくれるかが長文にわたって書かれていた。


「――あの子にとって私たちって何だったの?」




***********


 ――毎日夢をみる。私と彼の新たな住まい。ベランダで鳥が遊ぶ様子を私と彼は、彼が煎れてくれたコーヒーを飲みながらながめる。スウィート・オレンジの皮をむきながら、今日はどこに遊びに行こうかと話し合う。こんな日々が今まさに目の前に迫っている。


 ――動物を飼うなら犬がいい。お母さんは犬アレルギーで、お父さんは猫アレルギーだったけど、私はどっちでもない。ダックスフンド好き。彼も動物が大好きだって。よかった。


 ――いよいよ明日だ。最低限の持ち物を用意した。歯ブラシ、手鏡、化粧品、ヘアブラシ、リップクリーム。一着のスカートと一着のブラウス。あとは現地調達だ。準備は万端。


 ――きょうは私が初めて勇気をふるう日。いままで誰かのいいなりだった。親の、友達の、事務所の、社会の。でもそれも終わり。さようなら、私は旅立ちます。本当の人生をスタートさせるために。



***********


 ステージからはけてきたとき、サエが私を呼び止めた。またお小言かと思ったけど、その顔は蒼白で、まるでいままで冷蔵室に閉じ込められていたかのように見えた。


「どうしたの?」


 サエがなかなか口火を切らないので、促した。


「こんなことをいうと馬鹿かと思われるかもしれないけど」とサエは言った。「客席にさおりがいた」


「マジ?」


 息をのんだ。サエは怖い話が嫌いで、ちょっと霊の出てくる話をしようものなら烈火のごとく怒るのだ。


「私も見た!」ななかが声を張り上げた。「下手シモテ側だったよね」


「そうそう!」


「それって、青と白のボーダーのセーターを着ていた女の子のこと?」


「そうそう!」


 サエとななかが声をそろえた。


「その子さ、ライブ終わった後にステージに中指立ててなかった?」


 一瞬の沈黙のあと、爆笑が響き渡った。私たちはおなかを抱えて笑った。


「成仏してないんだね」


「私たちまで地獄に引き込もうとしてるのよ、さおりのことだから」


「絶対負けないもんね」


 私たちはグループを解散させなかった。それどころかもっと前のめりに目の前のことに向かっていった。私たちを突き動かしたのは意外にも怒りの感情だったのだ。


 


 三人集まればさおりへの悪口がとまらなかった。心から愛してると思っている相手でも、こういうとき自分でも驚くぐらいに口が動くものだ。私たちは口角泡を飛ばす勢いでしゃべり倒した。盛り上がった。その熱を原動力にステージに向かった。


 わかっている。さおりを憎むのは、三人の気持ちをひとつにしてグループをなんとしても続けるための方便だって。いずれこの気持ちも覚めてしまうのかもしれない。さおりには悪いけど、それまで出汁に使わせてもらおう。それが三人になった私ったちのスタートだ。……日記で私たちのことを無視するような仕打ちをしてきてたんだから、それぐらいいいよね?



終わり

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