第5話 イタチごっこ

 ひっ!

 という声は喉に張り付いた。

 呼吸はやけに乾いていた。情けないことに何も言えなかった。

 初手がそれでは、向こうも止まることがない。


 兄は容姿端麗だった。

 その美しい指先は、片手でわたしの両手首を難なく握ると、もう片方の手を滑り込ませて行った。自分の膝の上にいる鹿妹の膝の間に。


 怖かった。

 知識がまるでないわけではなかった。そういう年齢としだった。指先はうねりながら這うトカゲのように、わたしの足の付け根へと⋯⋯。


 わたしには何も言えなかった。

 言ったところで誰が信じてくれるものか?


 そのうち、わたしも美しい陰を纏う兄と共に、陰を纏う者になった。


 幾度も幾度も、穢され、おもちゃの人形のように思いどおりにされ、それは終わることのない地獄のようだった。誰も知らないわたしだけの地獄。

 ――そんなわたしの存在に正臣だけが何故、気が付いたのか? 

 わたしのためだけに存在する人がそこにはいたんだ。


 ◇


 実家には理由をつけてあまり帰らなくなった。父母はわたしを心配したけれど、正直なところ、兄に夢中で、わたしは人並み外れた道を行かなければそれでいい、というのが手に取って見えた。

 帰らなかった。

 大学で知り合った正臣は兄とは違うことをたくさん知っていた。例えば鳥の声、星の名前。

 そんな彼に惹かれるのに時間はかからなかった。――罪悪感を伴いながら。


 家に帰るとまたおもちゃにされる。

 兄とわたしのイタチごっこの始まりだった。


 ある日、兄は部屋にやって来た。わたしに酷いことをし続けたという自覚はある、両親のためにも家に戻ってほしいと何の異常性もない様子で彼はそう言った。わたしは俯いて黙っていた。他人の部屋のようだった。

 ふっと兄が動くと身体が硬直した。逃げることもできない。

 兄はわたしの両肩を掴むと「頼むから」と言った。自分の本当の両親ではないにも関わらず良くしてくれる父母と、本当の娘であるわたしの縁を切らせるわけにはいかないと、じっくり語った。

 わたしはその時、頬を涙で濡らしていた。

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