第3話 命

 悪阻つわりというのは身体の中を空っぽにするようにすべてを奪っていく。

 それはそうだ。育っているのは命だ。

 ひとつの命が育つ時、わたしは寄生された生き物のように養分を吸われるんだろう。


「⋯⋯とにかく何か食べなくちゃな」

「このまま萎びて死んでしまってもいいの」

「赤ちゃんの前にお前が倒れてどうする? 俺はその子を許せなくなる」

「許せるの?」

「⋯⋯お前の子供だろう? なぁ、罪の無い命だ。愛してやることもできるかもしれない」

「よりによってあなたが!?」

「贖罪か、自己欺瞞か。どっちにしろ、なるようにしかならなかった」

「やめて、そんなこと言わないで。悪いのはわたしの方なんだから」

「いや、違う。俺が許せなかったんだ。俺が我慢できなかったんだ。――愛してる。結婚しよう。それでどこかここより遠いところに行って、何もかも忘れてやり直そう。お腹の子供の良い父親になれる自信はあるし、もしお前がもう一つの選択肢を望むなら⋯⋯病院も付き添うよ」

 嗚咽が、喉の奥から笑い声のように止まず響いた。


 ピンポーン、という明るいチャイムの音が響く。

「はい」

「松原みかげさん、お時間よろしいですか?」

「はい、来客中なので少しなら。どちら様ですか?」

「警察です」


 わたしはパッと正臣を振り向いた。

 そして彼を見たことがインターホン越しに警察に見られたのではないかと恐れた。

 正臣は優しい目をしていた。それはわたしを慈しむ時とはまた違う、神の目線のような微笑みだった。

「俺、出るよ」

「待って。困る。わたしには正臣が必要なの。ここにいてほしいの。ほら、ここに」

 彼の手を強引にお腹の上に置いた。

「ここに、あなたを必要とする命がある」

 彼はわたしの肩を抱いて一言「愛してるよ」と囁いた。

 ドアが乱暴に叩かれ、時間はもうなかった。

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