第40話
スタジオの予約時間が来て全員での練習が終了。
「じゃ、皆おつかれ。今日はこのまま解散な。明日は番組スタッフが練習風景の撮影に来るそうだからちゃんとしとけよ」
6人が「はーい」と元気に返事をする。帰り支度を始めたところでアヤが寄ってきた。
憑き物が取れたようにアヤは数時間で変わった。死んでいた目はいきいきとし、オーラだけなら人気絶頂期の輝きを取り戻している。
「黒子。もう少し練習したいんだけど付き合ってくれない?」
「まだやるのか? 少しは休めよ」
「うん。休みながらやるよ」
「まぁ良いけど、ここはもう閉まるからな……」
「別のスタジオ探す?」
「いや……店に行くか。あそこなら何時間使ってもタダだからな」
「……いいの?」
アヤの表情が曇る。あまり良い思い出がある場所ではないか。
「俺は良いけど……別のとこがいいか?」
「ううん。じゃ、そこで。ありがと」
卯月がチラッと俺達の方を見ていたことに気づく。目が合うとニコッと笑って卯月は茉美や虎子と手を繋いでスタジオから出ていった。
いつもなら真っ先に絡んでくるんだろうに。変なやつだ。
◆
店に移動して居残り練習をすること5時間。気づけば日付を回って深夜一時になっていた。
「……はぁ……はぁ……ど、どう?」
へとへとになったアヤが床に座りこんで尋ねてくる。
「めちゃくちゃ良くなったぞ。明日には皆と合わせられるな」
「良かった……皆うますぎだって。茉美とか世莉架ってダンス未経験なんでしょ?」
「そうだぞ。ワシが育てたってやつだな」
「皆天才だね」
「俺もビビったよ。初めて路上ライブしたら通行規制になるくらい人を集めてさ。警察まで来たんだぞ」
「すごっ! 本当、あたしとは違う世界の人達だなぁ……覚えてる? 初めてライブに出た時のこと」
「覚えてるよ。チケットが売れないと自腹って言われてさ。居酒屋に突撃して酔っぱらいに売りつけたよな」
「そうそう! 酔った勢いで見に来てくれたのに『酔いが冷めた』ってすぐ帰っちゃってさ」
「せめて見て帰って欲しかったよな。あー……ホストクラブに行った時もあったな」
「あったあった! 黒子、シャンパンタワーの前でムーンウォークしてたよね。チケットも完売したし。ホストクラブにいる人ってお金持ってるんだねぇ」
昔話に花が咲く。二人で笑い合っていることを認識した途端、妙な気まずさが襲ってきてそのまま苦笑いになって顔を逸らした。
「……頑張ったな、アヤ」
ここまでの数年間の全てに対して。そんな気持ちで俺が言うとアヤは顔を勢いよくあげる。
「あ……ありがと……」
「なんだよ」
「褒めるんだ、って思っただけ」
「まぁ……そうだよな」
結局ここまでこじれてしまった原因は俺にもあったんだろう。アヤを褒めなかった。そこから燻って爆発した。
クビになるよう仕掛けた事は許せないけれど、かといってそのことばかりを気にしていても前に進めないと思った。今日はそのチャンスなのかもしれない。もう一度お互いに信用して歩み寄るためのチャンスだ。
「アヤ……その……わ、悪かった。ごめん。ちゃんと気持ちの面まで向き合ってやれてなかったよな」
アヤはポカンとして固まっている。
「えっ……あ……う、うん。あたしこそ……その……取り返しがつかないことをしたから……ごめんなさい……謝ってどうにかなるわけじゃないけど……」
「それはお互いにそうだな。許すとか許さないとかじゃなくて……なんだろうな」
「ま、言わんとすることは分かるよ。あたしも一生物の傷を負ったんだ。これも自分のせいだね」
「一生物?」
「うん。ここ、見て」
アヤはそう言って前髪を上げて額を露出する。そこには一本の真っ赤なミミズのような線が入っていた。
「ど、どうしたんだよこれ!?」
「仕事、選んでる余裕がなくてさ。格闘技の番組に出たんだけどボコボコにされちゃって。血まみれKO負け。その時の傷なんだ」
「マジかよ……」
女の顔に傷というのはかなりの重さ。しかも自身が売り物であるアイドルなのだから尚更だ。
「流石にあたしも怒ったんだけど『一切の責任を問わない』って契約書にサインをしたからの一点張り。社長もなぁなぁにしてくれちゃって。泣き寝入りだよね。もうデコ出しの髪型は出来ないなって。ま、それだけなんだけどさ」
「それも結構キツイだろ……」
「もう一箇所あるよ。ここ」
今度は髪の毛を持ち上げて首筋を見せてくる。
だがその首筋は磨かれた陶器のようにきれいで傷一つない。
「どこだ?」
少し前のめりになって傷を探す。
「ここだよ」
アヤが指差す首の根元を覗き込んでいると、不意にアヤが俺のすぐ目の前にやってきた。
「んっ……」
アヤの唇で口が塞がれ、無意識に鼻呼吸に切り替わり、生暖かい鼻息がお互いの顔にかかる。即座に離れるべきだとわかっているのに離れられない。
自分の受け持っているタレントには手を出さないのがポリシー。いや、アヤは今は関係のない人だ。それなら良いんじゃないか? と天使と悪魔が鍔迫り合いを始める。
勝ったのは天使。アヤが舌をねじ込もうとしてきた瞬間に理性が勝って顔を離した。
「……だめ?」
「ダメだろ。流されすぎだって」
「流されてなんかないよ。ずっと……ずっとだから。それに今は事務所とか関係ない。ただの他人同士だよ?」
「少なくとも今は俺が面倒を見てる。前と同じ扱いだな」
「じゃあマネージャーもしてくれる?」
「それは無理。移籍したら……いや、やめとこう。そういうのはまだ今話すことじゃないよ」
卯月のお陰で以前より歩み寄れた気はするが、その事に浮かれて距離を詰めすぎても後悔することになるだろう。しかも今日、雪解けしたばかり。尚更浮かれるのは危険だ。
「そっか……うん。ごめんね、黒子。練習付き合ってくれてありがと。帰ろっか」
「あぁ。大通りまで送るよ。タクシー拾うだろ」
荷物を片付けたアヤと店を出て、人気のない通りを歩く。夜道はひんやりとした空気がゆったりと漂っていて、遠くからは酔っぱらいの奇声が聞こえる。
「あたしね、このオーディションで落ちたら、この世界のこと、すっぱり諦めようかなって思ってたんだ。社長も結果が出なかったら契約解除だって言ってたし。ま、顔の傷の件で、こっちから願い下げだって感じだけど」
夜道でアヤがとんでもないことを言い始めた。
「い、引退ってことか?」
「うん。今回残れなかったら、それが自分の限界なんだろうなってあたしも思う。残れたら全力でしがみつくし、落ちたら諦める」
「まだいけるだろ……若いんだしさ」
「あたしより若くて才能がある人はたくさんいるよ。茉美ちゃん、虎子ちゃん、卯月ちゃん。みーんな年下じゃんか」
「だけど……」
「ま、けど……頑張れるかも、とは思い始めた……かな」
アヤはチラッと俺の方を見てくる。
「どっちだよ」
俺は笑いながら尋ねる。
「うーん……分かんない。けど、今は前向きだよ。後ろ向きよりの前向き……みたいな。
アヤは俺に背中を向けたままそう言うと腕を伸ばしてタクシーを停める。
滑らかに路肩に停車したタクシーに乗り込む前、アヤはは「一緒に乗る?」と聞いてきた。
「知ってるだろ? 俺の家、すぐそこなんだよ。歩いた方が早いんだわ」
「知ってる。だから誘ってみた。たまには別の部屋で寝たくないかなって」
アヤはニヤッと笑う。恐らく、このタクシーに乗ったら着くのはアヤの自宅なんだろう。
「一人で寝られるだろ?」
俺がそう言うとアヤは「はぁい」と言ってタクシーに一人で乗り込んだ。
すぐに出発したタクシーが交差点を曲がり、見えなくなるまでずっと同じ場所から動けなかったのだった。
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