第35話

 メンバーが帰った後、店のバックヤードで茉美と二人っきりになった。


 表情管理の改善のために何かをしたいそうだが、何をするのか案内もないまま茉美とぼーっと見つめ合う。


 本人は色々と考えているんだろうが、可愛らしい顔が無表情なまま固まっているので、まるで一流の職人が作り上げた蝋人形のようだ。


「な……何をするんだ?」


「壁ドンをしていただこうかと」


「壁ドン……?」


「壁際に相手を押し付けるようにして手をつく行為です」


「それは分かってるよ」


「そうですか。てっきり隣部屋に向かって壁を叩く行為の方を指していると勘違いされていないかとヒヤヒヤしていましたよ」


 欠片もそんな事は思っていないように茉美はニヤリと笑う。


「ここでそれをして何の意味があるんだ!?」


「何の意味もありませんね」


「はぁ……で、何で壁ドンをされたいんだ? 表情管理の話とどう関係するんだよ」


「表情管理……即ち、私が感情を表に出すためには心にあるダムを決壊させる必要があると考えます。ダムを決壊させるためには出力を超えた感情の動きが必要です」


「で、なんで壁ドンと繋がるんだよ」


「私が一番好きでドッキンドッキンするシチュエーションだからです!」


 茉美は力強く言い放つ。


「まぁ……色々と打ち手まで考えてんのは偉いけどさぁ……」


「嫌ですか?」


「進んでやりたくは無いだろ……」


「残念ながら、嫌嫌やられても私の感情が動かない可能性があります。是非、ここはひとつ全力で、よろしくお願いします」


 茉美はそう言うと壁に背中を付けて俺の方を見てくる。


 やるしかないのか……


 茉美の目の前まで行き、壁に向かって手をつく。そのまま顔をぐっと近づけた。


 すぐ近くで大きな目がパチパチと瞬きを繰り返す。


「うっ……わ、悪くないです……」


 首筋から耳まで真っ赤になった茉美は意地でも視線を外そうとしない。


「いつまでやるんだ?」


「まだです」


 お互いが声を発する度に吐息がかかる距離感。


「このまま目を先に逸らした方が負けとしましょう。罰ゲームは後ほど検討です」


「なら負けられないな」


 後から何をさせられるのか分かったもんじゃない。にらめっこのように真剣に見つめ合う。


 数十秒経って先に音を上げたのは茉美。「ホアアア!」と叫びながらその場にしゃがみこんだ。


「がっ、頑張りました私! よく耐えました! はっ……はっ……ふぅ……」


「だ、大丈夫か?」


 あまりの取り乱しっぷりに少し身体を引きながら尋ねる。


 茉美は顔を上げて頷く。


「はい! 大丈――」


「いやいや! 大丈夫じゃねぇぞ!?」


 茉美の顔は右目から涙を流し、左目は怒っているように青筋を立て、右頬は楽しそうに吊り上がり、左頬は喜びを表現するようにほうれい線がくっきりと浮かび上がっていた。


「きっ、喜怒哀楽が全部顔に出ている……」


 逆に感情が出すぎているんじゃないか!?


 茉美は「何を言っているんですか」と言って自分の顔を鏡で見る。


「なっ……なんですかこれは!?」


 茉美は大袈裟なまでに口と目を開けて驚いている。


「だから言ったろ……」


「ど……どうしたら……こんな感情キメラな顔ではとてもじゃないですが嫁にいけません」


 茉美は眉を八の字に下げて本当に悲しそうな顔をする。


「いや……いい感じだぞ。顔がうるさいくらいだ」


「失礼ですね」


 茉美は唇をこれでもかと尖らせてムッとする。


「可愛いなぁ」


「えっ……」


 今度は嬉しそうにはにかむ。フレッシュな照れ笑いは卯月といい勝負になりそうな程に爽やかだ。


 茉美も鏡で自分の顔の動きを見て驚いている。


「こっ、こんなに表情豊かに……」


「今ならいけるんじゃないか? ヤンデレ顔」


「はっ……はい!」


 一度下を向いた茉美が顔を上げるとゾクッと背筋が凍りつくような錯覚に陥る。目の前にヤンデレ彼女がいて、浮気がバレて喉元にナイフを突きつけられて殺されかねない緊迫した状況と脳が錯覚してしまうほどに迫力のある表情を茉美が見せたのだ。


「おっ……す、すごいな……」


「これが私ですか……」


「さすがだな。完璧な表情だぞ」


 茉美の頭をぽんと叩いて、帰り支度をするためにバックヤードの扉に手をかける。


「あ、黒子さん!」


 背後から茉美に声をかけられたので振り向く。


 すると、茉美は極寒の氷原に春がやってきたかのような雪解けの笑顔を見せてくれた。


「ありがとうございます、黒子さん。一皮剥けた気がします」


 不覚にも茉美の笑顔を見て心臓がバクンと跳ねた。胸キュンなんて認めたくはないが、それくらいに破壊力のある表情だ。


「よ、良かったな……」


「えぇ。あ、ちなみに一皮剥けたというのは生殖器の話ではなく内面的な話ですので」


「分かってるわ!」


 中身は相変わらず。そのギャップにまた頬が緩んでしまいそうになるのだった。


 ◆


 翌日、茉美が店にやってきた。


「おつかれさまでーす。あ、黒子さん、聞いてください

 よ」


 茉美は店に入るなり、客席の一つを使って事務作業をしていた俺の方へとやってくる。


「どうしたんだ?」


「ここに来る前、すぐそこの交差点で卯月さんと会ったんですよ。服装が上から下まで丸被りしていたんです。ウケますよね」


 茉美はそう言うも顔は一切笑っていない。


「お、面白かったのか?」


「えぇ。今年で一番笑いました」


「上半期はよっぽど辛いことがあったんだな……」


 カレンダーを見るともう5月が終わろうとしている。


 いや、そんなことよりも茉美の表情がまたなくなってしまっているじゃないか。


「茉美、顔がまた死んでるぞ」


「あぁ……寝たら戻ってしまいました。また壁ドンをお願いします」


「まじかよ……」


「そんなに喜ばないでくださいよ」


 ニヤリと少しだけ笑って茉美がボケる。


「文脈考えろよ!?」


「冗談ですよ。そういえば昨晩、神動画が撮れたんです。また壁ドンをしたくなりますよ」


 茉美はそう言ってスマートフォンを操作しながら更衣室へ消えていく。


 すぐに俺のスマートフォンに動画が送られてきた。


 再生すると、内カメラで茉美が自撮りをしているだけの動画だった。


『黒子さん、だーいすき!』


 少しアニメ声を作った茉美が百二十点の笑顔で好きと言ってくれるだけの動画。


 内容の是非は置いておくとして、これだけ表情が豊かになった事が嬉しくて動画を撮っていたんだと思うと更衣室の方を向いてつい顔が緩んでしまうのだった。

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