第3話

 黒子がいなくなった翌日。アヤこと座間絢はボイスレッスンのスタジオで、トレーナーから手渡された新曲の歌詞が印刷された紙を見て首を傾げていた。


「あれ? 先生、いつものメモがありませんよ?」


 絢は紙を渡してきたボイストレーナーに尋ねる。


「メモ?」


「はい。いつも書いていませんでしたっけ? どこで力を入れるとか、息を吸うとか、漢字の読み仮名とか。あれがないと歌えないんですけど……」


「そんなこと自分でやりなさいよ。プロでしょ? これまでだって自分でやっていたんじゃないの?」


「あっ……えぇと……」


「今日の歌、ダメダメだったわ。まるで素人みたい。これまでは最初からバッチリだったのにどうしたの?」


 絢はトレーナーの反応を見てすぐにメモ書きの主が黒子だと気づく。いつも歌詞の書かれた紙を渡してくるのは黒子だった。つまり、彼がレッスン前に事前にメモ書きを書いてくれていたのだ。そして、そのメモ書き通りに歌えば一流のレッスンすら簡単にこなせていたことにも気づかされる。


 スターである彼女の地位はここから大きく音を立てて崩れ始めるのだった。


 ◆


 ニート生活が始まって1ヶ月。平日の15時の駅前には仕事帰りの人は現れず、人通りも少ない時間に俺はウロウロしていた。目的はないが、日中に外へ出ないと落ち着かないのだ。まだ身体がニート生活に慣れていないらしい。


 そんなわけでぐるっと一周して帰ろうかと思った矢先、駅前の広場から女性の綺麗なビブラートが響いてきた。


 声のした方へと向かうと、地下鉄の入口を背もたれに、一本のアコースティックギターを持ってマイクの前に女子高生が立っていた。


 日本人離れした金髪にスラッとした手足ながら、優しいストロークで弦を弾いていた。曲はカバーばかりだが、激しいものから大人しいものまで彼女の声を通すことで既存の世界観が壊されて彼女の色に染まっていく。


 そんなとてつもない事が起こっているというのに、12月の寒さは彼女から人を遠ざける。


 彼女を囲んでいるのは熱烈なファンと思しき人と通りすがりのお婆さんの数名。「お人形さんみたいねぇ」とあるあるな褒め言葉で彼女を形容すると、ろくに歌も聞かずに立ち去っていく。


 そんな注目度にも関わらず、彼女が一言マイクを通して声を発する度、脳みそが揺さぶられるような衝撃があった。SNSは頻繁にチェックしていて歌手志望の若い人は目星をつけていたが彼女は見たことがない。


 最後まで聞き入っていたのは熱烈なファンと俺だけ。


 時間が来て彼女の弾き語りが終わる。固定ファンの人と少しだけ会話を交わすと、ギターケースを背負ってその場を立ち去ろうとし始める。


 そこでやっと自分の足が地面から動くようになった。慌てて彼女を追いかける。


 その女の子は横断歩道の手前で明らかにファンとはその違うチャラ目な人に通せんぼされる形で話しかけられていた。


「Tiktokやってるの〜? 応援するからアカウント教えてよ〜」


「あ……あはは……」


 女の子は明らかに困っている様子。仕方ないのでもう使うこともないが鞄に眠っていた名刺入れを取り出す。


「あ、あのー……私Axamという事務所でマネージャーをしている黒子と申しますが、少しお話よろしいですか?」


 女の子は目の色を変えて俺の方を向いた。それは面倒なナンパから助けてもらったからというよりは、単にAxamの名前を知っていたからなんだろう。


「はい! 喜んで!」


 女の子はナンパしてきていた男に「それじゃ!」と返事をしてさっさと振り切り、俺と二人で横断歩道を渡る。


 人目のあるビルの壁沿いに二人で並ぶと、女の子は嬉しそうにその名刺を眺め始めた。


「Axamってアヤちゃんのところですよね〜ふっふ〜ん。どういうお話なんですか?」


 どうやらめちゃくちゃ前向きに捉えられてしまっていたらしい。困ったな。まぁ種明かしをするしかないか。


「あー……あはは……実は元社員でもうクビになったマネージャー……だったり」


「はっ……えぇ!? からかってたんですか!?」


「からかったというか助けようと……」


「同じですよ! むぅ……折角のチャンスだと思ったのに……」


 女の子はしょぼくれてその場にしゃがみ込む。


「アイドルに興味があるの?」


 俺の質問に顔を上げ、こっちを見上げながら頷いた。


「まぁ……それなりに。けど元ってことは……誰を担当していたんですか?」


 女の子は値踏みをするように俺を見てくる。


「一番人気の人。数年前は小さなライブハウスでもチケットが捌けなくてほぼ自腹。けど今は、あそこにいる」


 俺はそう言ってアヤが映し出されている大きな街頭ビジョンを指差す。


「あ……アヤのマネージャー!? 昔からの!? なんでクビになったんですか?」


「まぁ……色々と。大人の事情かな」


 彼女の機嫌を損ねたのでセクハラのでっち上げでクビになったなんて話、高校生にするもんじゃないだろう。


「お!? 黒子〜! なんで店に来てくれないんだよぉ〜。一ヶ月探し回ったんだからね〜」


 視界の外から誰かに話しかけられる。カラフルな髪色、目を引く容姿、よく通る声。どこかで会ったような会ってないような……


「あぁ! タクシー代!」


 そういえばすっかり忘れていた。牛尾響。終電を乗り過ごして僻地に飛ばされた時に一緒になった人だ。退職後の手続きやらなんやらですっかりそのことを忘れていた。


 響はニヤリと笑って「正解」と答えた。


「ま、探し回っていたわけじゃなくてたまたまだけどさ。どうする? 今から取りに来る? っていうかこの子は……」


 響が女の子の方を見る。女の子は「私に振るな」と言いたげに俺に視線を返してきた。


「あー……あのさ。二人共、アイドルって興味ない?」


 苦し紛れに俺は二人に向けてそんな提案をしてみた。

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