第86話 二日目④

 咆哮が止む。耳朶を揺らす足音が響くが、次第に遠くなっていく。吹雪が弱まり、風の音が落ち着いた。

 アイラは雪と土砂の下で、息を殺して身を顰めていた。怒り狂ったマンムートから逃げるためには、むしろ埋もれている今の状態は好都合だったかもしれない。足音が遥か遠くになり、地面が揺れなくなってからも念の為アイラはしばらくの間潜伏していた。

 ようやく安全だと思えるようになってから、脱出を試みる。

 生き埋めになる気はさらさらなかった。アイラは右手に魔力を込め、拳を頭上へと突き上げる。火柱が立ち上り、地上まで穴が開く。すると、開けた穴に影が落ちた。


「ルイン」

「うむ。アイラ、無事だったようだな」

「ルインもね。怪我は?」

「ない。登ってこれるか?」

「うん、平気」


 左手で掴んだ荷物を落とさないよう強く握りしめながら、次に足に力を込め、跳んだ。とんっとんっと途中で穴の凹凸に足をかけては地上を目指す。雪原に再び降り立った時、先ほどの荒天から一転し、眩いばかりの太陽が雪原を照らしていた。周囲を見渡し、ため息をつく。


「あーあ、ひどいねこれは」


 雪が滑り降りた斜面は、山肌が半ばからえぐれて岩が剥き出しになっている。岩と雪とが一緒くたに混ざって降り注いだ雪原は、地形からして変わってしまっていた。


「探索拠点に……戻れるかな」

「これは相当迂回しないといけないだろうな」

「いくらルインがいたとしても、そんなことしてたら日が暮れちゃうね」


 夜間の行軍はできれば避けたいところだ。魔物の動きが活発になるし、明かりがないので視界も悪く襲撃に対応しきれない可能性が高い。ルインがいるのでさほどの危険はないだろうが、万が一夜にマンムートに出会ったらひとたまりもない。そしてなによりもーー。

 アイラは左手に握りしめている荷物をチラリと見下ろした。

 それは、人だった。アイラの大切な調理器具と食料を盗んだ不届き者だ。

 不届き者は死にかけていた。先ほどの落雪と落石のスピードと威力が凄すぎて、男が自らに張っていた防御結界が容易く突き破られたのをアイラは目撃していた。掴んだフードを力づくで引っ張って引き寄せ、結界を張ってやったのだが、その前にかなりのダメージを負っていて頭から血を流して気を失っていたのだ。いくら略奪者だろうとこのまま見捨てては寝覚めが悪い。アイラは基本、人死には避けたいと思っている。止血のために、とりあえず額の傷口を凍らせた。


「こいつをどうするつもりだ?」

「連れていくよ。放置して死んだら寝覚めが悪いから」

「ならばどこかに寝かせるか」

「うん、そうしたい。この男、ブレッドさんの話からするとバベルでも有名な盗人らしいし、たぶんルーメンガルドに拠点を持っているはずだよね。たぶん、銀雪山脈のどこかの岩窟に住んでんじゃないかな」

「なら、そこを探してひとまず落ち着くか。別に男の拠点でなくても、腰を下ろせる場所ならばどこでもいい」

「そうだね」

「よし、乗せるがいい」


 アイラは男をルインの背中に腹這いに乗せ、落ちないように紐でくくりつけた。それから自分はルインの隣を歩く。

 マンムートが壊した山を回避し、登れそうな場所から雪山を登っていく。進むには慎重さが必要だが、幸いにして雪崩によって雪がかなり少なくなっていたので、どこに足を踏み入れても大丈夫そうかの判断ができた。

 そうして道なき道を進んでいった先に、ぽかりと空いた洞窟を発見する。覗いてみたところ先に空間がありそうだったので、迷いなく入ってみた。探索拠点となっている場所と同じく、進むにつれて空気が温かくなってくる。さほど奥に行かないうちに、そこそこ広めの空間に出た。

 その場所は、明らかに人が使っている状態だった。

 アイラがバベルで借りている部屋ほどの広さの岩窟は、高い天井から鍾乳石が何本も突き出していた。男が折ったのだろう、何本かは先が平たい。

 岩窟の中にはルーメンガルドを訪れた冒険者から略奪したと思しきものが雑多に積み上げられていた。武器や防具、食料、ランタン。焚き火の跡には紐や袋の残骸などもある。アイラはひとまず男をルインの背中から焚き火のそばの外套を積み重ねて作った寝床へと無造作に下ろした。男は気を失ったまま寝床にうつ伏せに転がった。


「……っと、あたしたちの荷物はっと」


 仰向けに男を転がすと、顔の半分ほどを血まみれにしながら白目を剥いて気絶する顔が見えたが、ひとまず傷は塞いであるので気にしないことにした。男の懐を漁って、まずはアイラの調理器具が収納されているベルトを取り戻す。ベルトがナイフで切られてしまったのでそのままだと腰に巻けない。アイラは盗品の山に近づくと何か使えるものはないかと漁った。


「あっ、この針金いいじゃん」


 細い針金を見つけたので、それで繋ぎ合わせることにする。ベルトをショートパンツのループ部分に通し、針金を突き刺して糸のように縫い合わせるとベルトを再び固定した。


「さて、次は……」


 アイラは外套、ルインに持ってもらっていた食料と、次々に自分の持ち物を取り戻す。全てを取り返したところで、ルペナ袋から薬瓶を一つ取り出して、男ににじり寄った。男の額にかけていた凍結魔法を解除して傷口に魔法薬をかけてやる。薬が傷口に触れた途端、シュウシュウと湯気を立てながら傷が消毒され、皮膚が再生されていく。額が右眉の上から耳にかけて斜めにパックリ深く切れていたのに、みるみると治っていく。すさまじい再生速度だった。傷が治る過程に痛みが生じたのか、それとも違和感があったのか、男は気を失ったまま眉間に皺を寄せて呻いた。胸元をかきむしっている。


「アッカーおじいちゃん特製の魔法薬だよ。高かったんだからね。感謝しなよ」


 聞こえているんだかいないんだかわからないが、アイラはそう言った。

 ルーメンガルドに来る前に準備として購入しておいたものだ。「石匣の手」のリーダー、エマーベル御用達の店「アッカーの魔法薬店」で買ったものである。アッカーじいさんは相変わらず手足がガクガク、プルプルしていて、自分の店の品をぶつかったり取り落としたりして割りそうになっていた。というかいくつかは床に落として割ってしまっていた。孫は素材採取でバベルの外に向かったらしく、おじいさん一人だった。

 おじいさんの足腰はともかく、薬の腕は確かだ。値段もバベル内にしては良心的である。素材を自分達で取りに行っているため、その分安く提供しているとのことだ。

 アイラが外的損傷を治す魔法薬の一本を気前よく盗賊に使うと、呻き声はおさまり、代わりになにか呟き出す。


「?」


 何かと思って耳を近づけてみると、どうも誰かの名前を呼んでいるようだった。加えて胸元の手は、服の下に隠されている何かを握っている。


「ジーナと言っているようだな」


 人間よりも聴覚が鋭いルインが、耳をピクピクと動かしながら言った。


「はぁん……なるほどね」

「何かわかったのか?」

「うん、まあ、あたしにも身に覚えがあるし。……忘れられない人がいるんでしょ、きっと」


 アイラが息を深くつくと、天井の高い岩窟の中で思ったよりも反響した。ルインが髭を揺らしながら首を傾げる。


「忘れられないヒトがいて、なぜうなされるんだ?」

「多分、思いがけない形で失っちゃったんだよ。そうするとね、悲しみと後悔が押し寄せて、夢に鮮明に現れるの」

「なるほど。そういえばアイラも、出会ってすぐの頃はよくうなされてたな」

「……うん。父さんと母さんのことを思い出して、どうしてもね」

「なぜ、落ち着いた?」

「シーカーとルインがいたから」


 悪夢にうなされ夜中に目が覚めると、シーカーがそっと頭を撫でてくれた。それがアイラには何よりも頼もしかった。ルインのふかふかな毛がアイラをやさしく包み込んで、ルインの鼓動を感じると心が落ち着いた。


「一人じゃないと思うとね、人間、強くなれるんだよ。気がついたら夢に父さんと母さんが出てくる回数が減って、今ではもう悪夢は見なくなった」


 ルインがガラス玉のような眼を細め、遠くを見るような仕草をした。


「言われてみれば、オレにもそんな経験があったような……」

「ほんと?」

「ああ。まだ子ぎつねだった頃、仲間が身内争いで全滅してな。シーカーが拾ってくれたんだが、その頃は夢見が悪かったような気がする」


 ルインの子ぎつね時代の話というのはアイラでも聞いたことがなかった。珍しい話に興味津々だったが、ルインはそれ以上語らず、一人で納得したようだった。


「うむ。わかる。わかるぞ。急に親しい者がいなくなれば、悲しい気持ちになる。オレの仲間は血の気が多く、ろくな連中ではなかったが、それでもオレの他には一頭残らず死に絶えてしまった時にはやるせなくなった」

「そうそう。そうなんだよ」


 ずっと一緒にいた存在がある日急にいなくなれば、心にぽっかり穴が空く。大切であればあるほど、悲しみは深く絶望は大きい。

 バベルで『堕ちた者』と呼ばれ、マンムートとともに『雪原の二大脅威』とまで呼ばれるこの男も、身の内に抱えているどうしようもない衝動に身を任せた結果、今の状態になってしまったのだろうか。だとすれば、根っからの悪人とは言えないだろう。


「しょうがないなぁ」


 焚き火の跡に近づいて、ボニーに貸してもらった瓶を置いて魔法で火を灯す。蓋を開けたままの瓶の中で炎が燃え盛り、岩窟内を暖かな光で照らした。

 アイラは自分の荷物の中から食料を取り出した。昼にでも食べようと思っていたパンだ。今朝肉と魚と野菜とを焼いて挟んだ、ボリュームタップリのお腹に溜まる一品だった。


「はい、一個どーぞ」

「うむ」


 ルインにパンの一つを放ってやると、器用に口でキャッチしてムシャムシャし出した。


「まさかこんな風に食べることになるとは思わなかったけど」 


 アイラもあぐ、と口を開いて食べる。男は眠っていたが、やはり時々うなされていた。

 パンを食べ終えたアイラは瓶に蓋をして火を中で燃え盛らせたまま、ルインに身を寄せる。


「寝るか?」

「うん」

「ならオレも寝ておこう」


 ルインは四肢をだらけさせ、前足に頭を乗せると目を閉じた。アイラも外套を毛布がわりにかけて、体を縮こまらせてから瞼を閉じる。ルインの体温は相変わらず心地よい。こうして身を預けているだけで安心できる。アイラの悪夢を拭い去り、柔らかな居心地の良さをくれた、ずっと前からアイラの居場所となってくれたルイン。ルインといればどんな場所でも恐ろしさを感じない。

 時折漏れる男の唸り声を耳にしつつ、アイラは平和な眠りの世界へと落ちていった。

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