第84話 二日目②

 男は、全体的に灰色だった。

 二十代前半に見えるその男は、伸び放題のくすんだ灰色の髪を後ろで雑に束ねていた。顔色が悪く、眉間には深く皺が刻まれ、思い詰めたような顔をしており、しかし瞳の色は驚くほど綺麗な銀色をしている。

 厚手の毛皮の外套を羽織り、片手には棘が突き出した頭部付きのメイスと呼ばれる聖職者がよく使う殴打用の武器が握られていた。

 男は全く抑揚のない老人のようにしわがれた、吹雪にかき消えそうな声を発する。


「持ち物全部、貰い受ける」


 瞬間、アイラの脳裏にルーメンガルドに出立する前にブレッドに言われた言葉が思い起こされた。


『ルーメンガルドには時折、『堕ちた者』と呼ばれる盗賊が出ます。出会ったら最後、訪れる冒険者を拘束し、持ち物を問答無用で奪い去って行くので、注意してください』

『おまけに彼が現れる時は高確率でマンムートとも出会うのです』


 ーーこれが噂の、『ルーメンガルドの二大脅威』……!


 男が崖から飛び降りて、こちらに近づいてくる。同時に、マンムートの雄叫びと足音も迫っているように思えた。絶えず地鳴りがする。地面はかなり揺れているが、魔法陣に拘束されているアイラたちが転ぶことはない。

 このままでは、身包み剥がされた挙句に雪原最強の魔物の前に放り出されてしまう。それは困る。アイラは今日持ってきていた食料を渡す気も、愛用の調理器具たちも取り上げられる気はさらさらなかった。

 雪と氷の礫が容赦無くアイラの肉体を傷つけていた。やばい。さしものアイラでも、ここまで動けなくなることは久々だった。どれだけ強い魔法を使ったんだ。ルインも唸り声を上げるばかりで、拘束を破れないらしい。

 こうした状況はダストクレストでは起こり得ず、その前の旅をしていた時はシーカーがなんとかしてくれていた。

 しかし今ここに、いつも頼れるシーカーはいない。自分達でどうにかしなければならない。


「…………っ」


 アイラは捕縛を解除する反対呪文を唱えてみたが、全く効果がなかった。言葉は虚しく雪風に吹かれて雲散霧消する。

 こういう捕縛系の魔法にかけられたときの破り方は、反対呪文を唱えるのが基本だ。しかし一般的な捕縛魔法ならそれでいいのだが、こうした大規模魔法陣を利用したものになるとそうもいかない。

 先のヴェルーナ湿地帯でパシィとイリアスが作成した魔法陣のように、ベースは存在していても独自のアレンジが加えられているものは破りにくいのだ。

 ではその場合どうすればいいのか。単純明快な答えが一つだけある。アイラはかつてシーカーに言われた言葉を思い出した。


「魔法陣を上回る魔力を流し込んで、力づくで破ってしまえばいい」


 そのわかりやすい方法は、感覚派のアイラにぴったりの方法だ。

 アイラはかつてシーカーに教えられた方法を実践するべく、全身に力を込めて魔力を外に出そうとした。

 魔力というのは普段、体のどこかに蓄えられていて、必要時にそれを集めて使う。大体は掌に収束させて魔法に変換したり、もしくはファントムクリーバーに流し込んで刃を強化するのがアイラの好みだ。

 しかし、だからといって他の場所から発散できないわけではない。

 アイラは今、身体中から魔力を放出しようとしていた。とにかく物量で押し切ろうという魂胆だった。しかし現在捕縛されている身ではなかなかそれもうまくいかない。魔力はアイラの体の内側に止まり続け、まるで見えない壁に弾かれているかのように外に出ようとしては押し返されている。


「無駄だ。俺の魔法陣はそんな力じゃ破れない。なにしろ、『雪原の覇者』さえ足止めできる特別製だ」


 アイラを捕縛した張本人が、魔法陣の上を通り、悠々とアイラに近づいてきた。間近で見てみると、男の顔には苦労と憎しみが刻み込まれている。星を閉じ込めたような美しい銀の瞳には仄暗い妄執のようなものがちらついており、その声はルーメンガルドの雪原の上を逆巻く吹雪よりも冷たい。


「命まで取ろうとは思っちゃいねえ。荷物を貰ったら解放してやる」

「あんたにあげるものなんて、なにもない、けど?」


 魔力を放出しながら、一言一言に力を込めながら言う。それでも魔法陣はびくともしない。よほど頑丈に作られているようだった。

 男がどんどん近づいてくる。眉間に寄った皺がはっきり見えるところまできたところで、男の手がアイラの腰に触れた。手にはメイスの他に、短刀が握られている。ベルトを切ってそこに収まっている調理器具一式全部持っていくつもりだ。そこで男はわずかに首を傾げた。


「…………? 武器じゃない?」

「調理道具だよ」

「は?」


 雪と氷がどんどん酷くなっていた。もはや、目の前にいる男の顔さえ霞むほどにひどい天候だった。頭の上に雪が積もっている。ルインもおそらく雪に埋まりつつあるだろう。彼は体の面積がアイラより大きく横に長い分、積雪しやすい。

 男は困惑し、訝しげに首を傾げる。


「なぜ調理器具? 冒険者じゃないのか」

「冒険者だけど、料理人だから」

「……料理人? なぜそんな職種の人間がここに……」


 男は問いを投げかけたあと、首を横に振った。


「いや、そんなことはどうでもいいか」


 男の手がいよいよアイラのベルトを持ち上げ、短剣で切り裂こうとした。 


「気安くあたしの調理道具に触んないでくれる!? これ一式を、あたしがどれだけ愛情込めて使ってると思ってんの!」

「どうせ弱肉強食の世界だ。捕まったお前が悪い」

「まあ確かにそうだけど!」


 短剣がベルトを切り、アイラの腰から引き抜いた。細長い革のベルトが男の片手からぶさ下がる。そこに収納されている調理道具一式が揺れ、ジャラジャラ音を立てた。外套も奪い取ると男はアイラへの興味を失い、ルインの方へと向き直った。


「お前、オレに手を出すと黒焦げにするぞ」


 ルインは威勢のいいセリフを発したが、いつも口から勢いよく吐き出される火球も、今も蝋燭の灯火ほども出てこなかった。どれほど男の魔法が完璧なのかが窺い知れる。ルインからも荷物を強奪する気配を感じ、男が捕縛魔法陣を横切り、そして何処かへと去ろうとしたーー。

 突然夜になった。

 先ほどまでも天気が悪いせいで薄暗かったが、今や完全なる闇に包まれている。

 時間帯としてはまだ午前のはずだ。にもかかわらず空が漆黒で覆われたという事実に、アイラとルイン、それに荷物を奪い去ろうとした男も固まる。

 いくら異なる天候が集まるバベルとはいえ、急に朝が夜になるはずがない。もしそんなことが起こるとするならば、それは、何かが空を塞ぎ、影を落としているのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る