第82話 雪原の覇者

 真っ黒い空に暗雲が渦巻く。雷光が迸る。凍てつく冷気が吹き荒ぶ。

 それはアイラをしても立っていられないほどの豪風で、しかも雪に混じって巨大な雹が叩きつけられていた。この雹、驚くべきことに、常時アイラが張っている火属性の結界魔法を貫通してくる。つまり当たるとダメージを喰らい、痛い。アイラの羽織った雰囲気づくりの外套など容易く破り、肌に食い込む氷の塊にさしものアイラも辟易とした。


「…………っ!!」


 どうにか吹雪からのダメージを軽減しようと片手で頭を庇うアイラのすぐそばには、ルインのほかに一人の男がいた。

 二十代前半に見えるその男は、くすんだ灰色の髪をボサボサに伸ばしており、しかし瞳の色は驚くほど綺麗な銀色をしている。

 着古して汚れた上位聖職者の衣服の上に、厚手の毛皮の外套を羽織り、片手にメイスと呼ばれる聖職者がよく使う殴打用の武器が握られていた。


「……あれは……『雪原の覇者』マンムート! この短期間に二回も遭うなんて、クソッ、ついてねぇ!! おい、逃げるぞ!!」

「はぁ?」


 アイラは男の言葉にキレ気味に返事をした。イライラしていた。いや、つい先ほどまではいい気分だった。胸に一抹の切なさがよぎりつつも、達成感があった。しかしこの邂逅は歓迎できるものではない。台無しだ。ぶち壊しだ。片手で頭をかばいつつ、結界魔法に流す魔力量を増やす。天候如きに肌を傷つけられるなど、アイラのプライドが許さない。

 マンムートは吹雪と共にやってくる。しかしその吹雪とは、アイラの予想をはるかに超える暴力的なものだった。この吹雪はもはや、攻撃だ。アイラは目の前の巨体をしっかりと右目で見据えた。


「逃げる? 無理でしょ。前回起こったこと、忘れたの?」

「逃げるんだよ! 全力で走れば、撒ける! 俺は何度もそうやってコイツから逃げてきた!」

「無理だよ」


 アイラにはわかっていた。この魔物はアイラたちを逃す気はない。こちらがどれほど走っても、地獄の果てまでも追いかけて来るだろう。

「たとえばこのままバベルまで逃げ帰ったとして……こいつは追いかけてくる。そしたら犠牲者はもっと増える。だからあたしは、逃げない」

 アイラの脳裏によぎるのは、バベルに来てから出会った人々の顔。もしもアイラがここで逃げ出せば、マンムートはそこに住む人々を蹂躙する。

 そもそももっと手前のピエネ湖でのんびり釣りを楽しむ人々を巻き込んでしまう。


「あたしとルインが引きつけるから、あんたは先に逃げてていいよ。目当てはたぶん、あたし達だろうし」


 アイラは一回目の邂逅時の記憶を呼び起こす。

 この魔物はアイラに怒っているのだ。自らの誇りであり、武器でもある、長い鼻に致命打を与えたアイラに対して。

 この言葉を聞いた男は、わずかに顔を歪めたが、やがて覚悟を決めたように言った。


「……わかった。俺もお前には大きな借りがある。お前が倒すと言うなら、力になる」


 意外に思ったアイラは右目を大きく開いてから口元に微かな笑みを浮かべた。


「へえ、『堕ちた者』とか呼ばれてるのに……やっぱ情に厚いんだね。あたしの思った通りじゃん」

「うるさい」


 男はメイスを握りしめ、ありったけの勇気を振り絞り、巨大な魔物を見上げる。輝く夜空の星を閉じ込めたかのような銀色の瞳は決意にみなぎっていた。

 アイラは腰から愛刀のファントムクリーバーを抜き、全く怯まずにマンムートを見据え、左手の人差し指を突きつけて叫んだ。


「ーーよぉし、せっかく会えたことだし……前回みたいにはいかないからね! その

巨体をおろしてさばいて美味しく味付けしてやるから覚悟しなっ!!」

 それは心の底からの本音であった。

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