第53話 沼地でスローライフ③

 パシィの話を聞いた一行は、アイラが最初にパシィに出会った湿地帯の沼地までやって来た。アイラとルインが鍋をしようとした岩場以外に止まれる場所がないその沼の前で、シングスが口を開く。


「この沼そのものから瘴気が出てるっていうの?」

「正確には、沼の中に亀裂が走っていて、どこかの地下から漏れているんだと思う。少なくともパシィが五十年研究した結果は、そう」

「じゃ、その亀裂を塞げばいいんじゃない?」


 アイラの提案にパシィは首をフルフルと横に振った。


「水が邪魔で場所が特定できないの」

「じゃあ、沼の水を干上がらせよう」

「えっ、ちょっと、待っーー」


 アイラは両手を天に掲げ、魔法を放つ準備をした。しかしアイラが何かする前に、慌てたパシィがアイラの腰に抱きついてくる。


「待ってアイラッ! そんな大きな火球を打ち込んだら、引火して大爆発が起きちゃうよ!!」

「あ、そうなの?」

「そうなの!」

「じゃあ……別の方法を考えよっか」


 悩むアイラに助言をしたのはイリアスだった。沼を見ていた彼は、薄い氷のような色の瞳でアイラを見、人差し指を立てた。


「こういうのはどうだ? 氷塊を打ち込んで、水を全て外に出す」

「あーいいかも。どうかなパシィ」

「それなら、大丈夫……けど、そんな大きい氷の塊、だせるの?」

「出せる」


 イリアスは言うなり、両手を前に向かって突き出した。薄青い光が収束し、瘴気が僅かに乱れる。空気の流れがそこだけ変わり、ヒヤッとした魔力を感じ取った。うなじがピリピリするほどの魔力量に、アイラの右目が見開かれる。

 絶対零度の氷塊が沼地の真上に出現し、そして落ちた。

 圧倒的な質量と重量を伴う氷塊が落ちたことで、沼の水は窪地に止まることができず、まるで瀑布のように勢いよく水を撒き散らしながら周囲へと溢れ出る。

 音の暴力だった。

 耳鳴りがするような轟音を立てて沼の水が津波のように押し寄せる。アイラはその場の全員を守るべく、瞬時により強力な結界魔法を展開する。常時覆っている瘴気を防ぐためのものとは異なる、物理攻撃を弾くタイプのものだ。この場合は水属性の結界魔法だ。火属性だと沼地の水により消されてしまう可能性があるし、維持によけいな魔力を食う。水属性の結界魔法で守り、受け流したほうが断然いい。

 果たして視界から押し寄せる沼地の水が消えた時、そこにあるのは巨大すぎる氷塊だけだった。

 イリアスは氷塊に近づき、右の掌を当て、呪文を呟く。


破壊デストロイ


 掌を中心にして氷塊に亀裂が走り、それが全体に広がり、粉々に砕けた。

 シングスが両手を合わせ、弾む声を出した。


「さっすがお兄! あっという間に沼の水がなくなったね!」


 今しがた自分の兄が巻き起こした津波によって押し流されそうになったとは思えない、能天気な感想だった。


「これで原因の場所の特定が出来るはずだ」

「早速近づいてみようよ!」


 イリアスとシングスが率先して沼地に近づき、アイラたちもそれに続く。


「こうやって見てみると、確かに瘴気がどっから出てるかわかりやすいね」


 イリアスが作り出し、砕いた氷の欠片が散乱している沼地を覗き込むと、もうもうと霧が吹き出している。ヴェルーナ湿地帯全体を覆っている瘴気よりも色が濃い。イリアスが顔を顰めた。


「これは直接吸い込んだら即死だな」

「あそこの岩の間の亀裂から出てるっぽいね」


 アイラが指を差した先を、一同が視線を辿り頷く。シングスが首を傾げた。


「でもこれ……どうやって止めたらいいんだろ?」


 氷塊の上に器用に立ちながら、イリアスはお馴染みの研究対象を眺めるような目つきで瘴気の吹き出す亀裂を眺めつつ、短く声を発する。


「今現在、瘴気を防いでいるのと同じ手段を使うしかない」

「結界魔法を使うってこと?」

「そう。より正確に言うなら、魔石を用いた結界魔法陣を作り、それで蓋をする」

「なるほどねぇ。お兄、そういうの得意だし、結構簡単じゃない?」

「一つだけならそうだが……」


 イリアスはそこで亀裂から目を離し、パシィを見た。


「瘴気が吹き出しているのは、この沼だけか?」

「……ううん、違う」


 パシィはアイラの背中からそっと顔を出し、フルフルと首を横に振った。


「あちこちの沼から出てるの。どんどん増えてる」


 イリアスが嘆息する。


「やはりそうか。全部を突き止めて塞ぐのは結構骨が折れる作業だな。わけを話してギルドから人を派遣してもいいが、いくらバベルが誇る優秀な職員たちでもこの瘴気の中長期間作業が出来る人員は限られているだろう」

「お兄、他の冒険者の手を借りたらどう?」

「統率が取れるかどうか。そもそもまず初めに、瘴気の成分を分析して、半永続的に効果のある結界魔法陣を作り、それが本当に効果があるかを確かめてからでないとーー」


 アイラはイリアスの話す内容がさっぱりわからず、ルインの頭をモフモフと撫でながらなははーと笑った。


「なんかよくわっかんないけど、すごい難しそうな話してるね。伊達に研究者っぽい見た目してないっていうか!」

「そうだな。オレにもさっぱりわからん」

「お兄はわたしの属性魔法を調べるために学者になったんだよ。何でも知ってて、すごいんだから」

「確かに、すごい」

「ああ、すごいな」

「……すごい、かもしれない」

「ほら、お兄! アイラちゃんもルインちゃんもパシィちゃんにもすごいって言われてるよ」

「今、どうやって効率的に瘴気を防ぐのか検討している最中だからちょっと黙っててくれないか」


 二人と一匹に褒められたイリアスはにこりともせずにバッサリとそう切って捨てた。


「……まずやるべきことは、やはり成分分析……通常の結界魔法で防げているということは、さほど魔法陣をいじらずとも流用可能なはず。だが、無駄が多いのも確かだ。やはりブラッシュアップをして、より効果的な魔法陣を作り出すことが不可欠だろう」


 顎に指を当てブツブツと呟くイリアスに誰も質問など出来なかった。専門的すぎるし、低レベルな疑問をぶつければあの冷たい瞳でひと睨みされ、「黙っていてくれないか」と言われそうな気がした。

 アイラはイリアスに話しかけるかわりに、未だパシィを見た。だいぶイリアスとシングスにも慣れたらしく、ようやくアイラの背中から出てきて今は沼地の底をじっと眺めている。


「ねえパシィ。この場所以外にどこから瘴気が出ているかわかる?」

「わかる。瘴気が出ているところは、全部把握済み」


 この会話を聞いていたシングスが人差し指を立てて小首を傾げた。


「じゃあさ、お兄が結界魔法陣を作り上げたら、それを使って全部に蓋をしたらいいんじゃない?」

「百箇所以上あるから、現実的じゃないとパシィは思う……」

「そんなにあるの!? 困ったなぁ」


 シングスはおでこをパチンと叩いて眉尻を下げた。話を聞いていたアイラにしても、結構大事だなぁと思い、そしてピンとある可能性に思い至った。


「ねえ、もしかしたら湿地帯の地下にその瘴気の原因があるんじゃない? どっかから地下に潜って、原因を探せばいいんじゃないかな」

「……確かに、それはそうかもしれない」


 パシィがアイラの案をゆっくり噛み締め、そして頷く。


「じゃあまずは、地下に行くための入り口を見つけよう!」


 するとこれを聞いていたシングスが自分を指差して提案した。


「それ、私とお兄もついて行っていい?」

「いいよ、もちろん。人手は多い方が助かるし。ね、パシィ?」

「アイラがいいって言うなら、パシィもいいよ」

「だって」


 シングスは返事を聞き、にっこりと笑う。


「ありがとう! じゃあ、お兄も呼んでくる!」


 軽やかに跳躍したシングスは、未だ自分の世界に入ったままのイリアスを恐れず特攻し、地下探索に行く旨を説明していた。


「地下……こんなぬかるんだ地盤の場所に地下があるとも思えないが」


 話を聞いたイリアスは開口一番にアイラの案を否定した。しかしアイラは負けずに、氷まみれの元沼地で現窪地を指差し、言い返す。


「百箇所以上の沼からこうやって瘴気が吹き出してるなら、原因がどっかにあるはずでしょ? 亀裂をいちいち塞いで回るより、大元を特定してそっちをなんとかしたほうがいいと思わない?」

「まあ確かに、それはそうだな」

「でしょ? だから、どこか人が入れるサイズの穴を探して、そこから中に入って調査しようよ」

「この視界の悪さでか? それより魔女に聞いた方が早くないか。彼女は瘴気の原因を特定しようと五十年以上ヴェルーナ湿地帯に止まり続けているんだぞ」


 イリアスの的確すぎる言葉にアイラは喉を詰まらせた。確かにその通りだ。


「……パシィ、湿地帯の中で、地下に通じてそうな穴とか洞窟とか、ある?」


 少し考えたパシィは、至極申し訳なさそうな顔をしながら言った。


「ううん、ないと思う。ヴェルーナ湿地帯には……沼しかないの」

「やっぱりお兄の言う通り、振り出しに戻って特定されている亀裂に封印魔法陣を刻むしかないかなぁ」


 むぅと頬を膨らませながら腕を組んだシングスが言う。アイラは何か引っ掛かりを覚えていた。


「待って、地下……地下に行くための道……なんかありそうな気が……あっ、思い出した!」


 手をポンと打ったアイラに、一同の目が集まる。


「パシィの住んでる家! 床板を剥がして掃除した時、封印魔法陣が刻まれた石があって、そこから空気が通る音がしたんだ! ね、ルイン」

「言われてみれば、そうだったな」

「だから、あの石を剥がしたらどっかに通じてるかもしんない」

「家の中に地下に通じている場所が? それはどうだろうか」


 半信半疑のイリアスの手をシングスが引っ張った。


「行ってみないとわかんないよ、お兄! こういう時は行動あるのみ、って教えてくれたのはお兄じゃん!」

「まあ、確かに悩んでいても結果は変わらないが」

「行ってみようよ!」


 シングスはイリアスの腕をぐいぐいひっぱり、まだ乗り気ではないイリアスを無理やりその場から動かした。

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