第49話 ヴェルーナ湿地帯②
瘴気漂う沼地のど真ん中、
「おいしい?」
一心不乱に料理を貪る人物にアイラが尋ねると、スプーンを動かす手を止めることなくコクコクと頷いている。
「それはよかった。おかわりする?」
首を縦に振った人物が皿を差し出してきたので、アイラは盛り付けてあげた。
「アイラは食わなくていいのか」
同じくふがふが食事していたルインが顔を上げて問いかけてきたので、その皿にもおかわりを持って上げながらアイラは答えた。
「いいや。あたしルインの上に乗っかってただけだし、お腹空いてる二人で食べたらいいよ」
「相変わらずアイラはお人好しだな」
「だって、空腹辛いじゃん?」
すごい勢いで食事をしている人物を頬杖をついて見守った。ボロボロな見た目のこの人物が、何日もまともな食事を取っていないのは明白だった。伸び切った白髪と手の爪、シワの寄った肌、身につけている衣服の粗末さ。おそらく湿地帯に入り、出られなくなってしまったに違いない。連れている蛇は従魔だろう。悪さをする気配もなく、大人しくしている。敵意がないならこちらから何かする必要もない。
アイラはひもじい気持ちがよくわかる。
お腹が空くと、辛い。絶望しか湧いてこない。ただひたすら食べ物のことしか考えられなくなる。人としての尊厳とか、そういうものがなくなってしまう。
だから見ず知らずの人ではあるけれど、お腹いっぱい食べればいいよ! と思った。
アイラはルインにまたがってただけだし、楽させてもらったのだから、別にまだ食べなくてもいい。いざとなればビスケットもある。
鍋の中が空っぽになり、名残惜しそうに眺めている。やがておもむろに立ち上がると、アイラに向かってペコペコと頭を下げてきた。「ありがとう」と絞り出した声はさっきよりも力強い。やっぱりお腹がいっぱいになると、声も元気になるよね。
「なにか、お礼……」
「あ、お礼してくれるの? じゃあさ、探してる魔物がいるんだけど、どこにいるか知らない? ゲイザーと、リビングアーマーと、アイアンクロコダイルってやつなんだけど」
ボロボロの人物はこくりと頷いた。
「知ってる。案内する」
「ほんと? 全然何もいないから困ってたんだ。助かる! どこの誰だか知らないけど、ありがと。そういえば名前は?」
「パシィ」
「パシィね。じゃあパシィ、よろしく!」
パシィのシワシワの手を取りブンブン振ると、パシィは驚いたように身をこわばらせ、それからおそるおそるアイラの手を握り返してきた。
伸び切った爪がアイラの皮膚に食い込まないよう配慮する様から、優しさが感じられた。
「あれがゲイザー?」
「そう」
「図鑑通りの見た目してる」
アイラとルインはパシィに導かれるままにヴェルーナ湿地帯を進み、そしてゲイザーに出くわした。霧のせいで見え隠れする巨大な目玉が沼地の上を浮遊している様は、なんとも不可思議だった。少なくとも普段のアイラだったらかけらの興味も湧かないタイプの魔物だろう。食べるところがなさすぎる。
「じゃあ、倒そうか」
「わたしが、やろうか?」
パシィがくいくいとアイラのベストを引っ張りながら言う。男だか女だかわからず、年齢すらも不明な見た目をしているのだが、妙に子供っぽい仕草が似合う。
「ヘルに任せたら、一発でパクリ」
「素材が必要だから、食べちゃダメなんだ。綺麗に残しておかないと」
「じゃあわたしの魔法で、一撃」
パシィはガサガサの声でそう言うなり隠れていた草むらから立ち上がり、よたよたとした足取りでゲイザーに近づいて行った。大丈夫かな、と心配になる動きだった。水を跳ね上げ飛沫を飛ばしながらゲイザーとの距離を縮め、相手に気づかれる寸前に右手の人差し指から魔法を放った。
アイラが見たことのない珍しい魔法だった。紫色の光が炸裂し、ゲイザーを水泡のようなもので包み込んだ後、ゲイザーはビクビクと痙攣してから事切れた。あまりにも一瞬で、あまりにも静かな魔法だった。パシィはその場にいたゲイザー全てをあっという間に全滅させ、そしてなぜかーー自身もその場に倒れた。
「えっ、ちょ、急にどうしたの? 魔力切れかな!?」
「かもしれんな」
大蛇が慌ててパシィの元へ駆けつけ、沼地に体が沈む前にそっと受け止める。アイラとルインも近づいてパシィの顔を覗き込んでみた。ボサボサの白髪に覆われた顔は蒼白で、唇の色は紫色だった。落ち窪んだ目がバッテンになり、欠けている歯の隙間から声が漏れる。
「……きゅう」
老人のような見た目と声のわりには、可愛い鳴き声してるなぁとアイラは思った。
気絶したパシィを乗せた大蛇が沼の中をゆっくりと進んでどこかへ向かい始めた。
「どこ行くんだろ……もしかしてパシィの住処かな?」
「かもしれんな。ついて行ってみよう」
全滅したゲイザーを回収し、アイラとルインは大蛇の後についていく。特に追い払われるようなこともないので、ついて行ってもいいのだろう。蛇が沼地を進んでいくと、水が音もなくさざなみを立てて揺れ、濁った水面に筋を描いた。一寸先が霧で見えない視界の中、白くヌメヌメした蛇の鱗を見失わないようにした。ルインもアイラも膝まで沼に埋まっているのだが、結界魔法のおかげで水浸しになったり虫に刺されたり沼の中にいる魚に噛まれたりすることはない。結界魔法は便利だ。
そうしてどのくらい進んだだろうか、大蛇は沼から上がると、丘のようなところを這い進み、やがて一軒の家の前で立ち止まった。
「こんなとこに家?」
「結構立派だな」
煙突のある石造りのちいさな家だった。銅板と思しき頑丈な扉を頭で押した大蛇は、アイラたちの方を振り返る。
「パシィを中に運びこめってことかな?」
「かもな」
アイラは大蛇の上に四肢を投げ出してぐったり腹ばいになっているパシィをそっと抱いた。びっくりするくらいに軽く、中身がないんじゃないかというほどだった。乱暴に扱えばすぐにも折れてしまいそうな体を壊れないようにそうっと横抱きにし、中に運び込む。
小屋の中はひんやりと清涼な空気に満ちていた。
「中は瘴気に汚染されてないみたいだね。小屋全体に永続性の結界魔法が張られてるのかな」
「そんなことができるのか?」
「うん。壁に魔法陣を刻んであるんだと思う。魔石に魔力を供給し続ければ、防げるはず。まあ、あたしも魔法陣に関してはよく知らないんだけど」
「なるほどな……」
部屋の中が薄暗かったので、手近なランプに火を灯した。柔らかな光で照らされた室内は、結界魔法のおかげで瘴気を防げてはいるものの腐って半壊気味だった。床に苔が生えているし、一歩歩くと床がギシギシと軋んだ。なぜこのぬかるんだ土地で、床を板張りにしてしまっているのだろう。壁同様に石造りにするべきだ。隅のベッドにパシィを横たえ、結界魔法を張っていなかったがためにずぶ濡れになった靴と紫色のローブを脱がせると、ガリガリに痩せた体が現れた。どうも女だったようだ。
「うわぁ……栄養失調」
アイラが顔を顰めて言う。
小屋にあったタオルで体を丁寧に拭いてやり、替えのローブを着せてあげ、毛布をひっぱり顎下までかけた。全部清潔とは言い難いものなのだが、ないよりマシだ。
「これでひとまずオッケーかな」
小屋にある唯一の窓はガラスが曇るほど汚れているが、窓いっぱいに黄色い目が映り込んでいた。あの大蛇がパシィを心配してじっと覗いていたのだろう。
「そんな顔しなくても、ちゃんとお世話するよ」と言ったが、大蛇は頑としてその場を動かなかった。
「これからどうする?」
「そうだねえ。ひとまずこの子目を覚ますまでの間に……狩りにでも行こうか」
「素材集めか?」
「んーん。違う」
アイラは首を横に振り、こんこんと眠り続けるパシィをちらりと見た。
「この栄養失調なパシィおばあちゃんのために、力がつく肉を獲ってくるの」
アイラは、ひもじい人間を見ると放っておけない性格だった。
それは自身の幼少期の体験に基づくものであり、何人たりとも満腹であるべしというアイラの行動理念に基づくものでもある。
お腹が空くのはとても辛い。いいことが一つもない。
たっぷり食べていっぱい休めば、ガリガリな体のパシィも回復してもう少しマシな状態になるだろう。
そのためにアイラが出来るのは、肉を獲ってくることである。
パシィが善人か悪人かはどうでもいい。いや、もしかしたら、というか十中八九彼女がバベルで散々噂に聞いた「沼地の魔女」で、あの蛇が「ヘルドラド」なのだろう。
だがパシィも大蛇もそんなに凶悪には見えない。アイラとルインに攻撃を仕掛けて来ないし、どちらかというと友好的ですらある。何か誤解があるのではないだろうか。
ダストクレストという犯罪者の巣窟で数年を過ごしたアイラは、人間には複雑な事情があり、噂話と実際は違う場合があるということを知っていた。悪名高い人間が実は冤罪だったりもするし、逆も然りだ。
そんなわけでアイラは、とりあえずパシィがもう少し回復するまで様子を見ようと決めた。
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