第48話 ヴェルーナ湿地帯①
ヴェルーナ湿地帯までの道のりは、文字通りあっという間だった。
川幅五十メートルはあろうかというマデラ川に沿ってルインが爆速で進み、出没する魔物は撒き、蹴散らし、あるいは食料にした。だんだんと霧が濃くなったかと思うと鬱蒼と生い茂っていた木々に隙間ができるようになり、低木へと変わり、そして突然それは現れた。
ヴェルーナ湿地帯は、濃い霧に覆われた、沼地が広がる開けた場所だった。
沼地に入る前に足を止めたルインが、黒く湿った鼻面をヒクヒク動かす。
「なるほどこの霧が瘴気というやつか」
「含まれてる毒は微量みたいだけど、用心したほうがいいね。結界魔法をかけておこうっと」
魔力を込めて右手の人差し指を振れば結界魔法が展開する。毒霧を防がなければならないから球体状だ。
攻撃魔法などを防ぐ場合は半球体の結界でいいのだが、毒や、あとは砂漠からの熱を遮断する時には球体にして自分達を完全に覆う必要がある。
「じゃ、行こうか」
「うむ」
結界魔法がしっかり効いているのを確認してから、アイラはルインに乗ったまま湿地帯へと足を踏み入れた。
今が雨季だと冒険者ギルドのブレッドが言っていた通り、湿地帯はほぼ水没していた。植物は水の中から生え、道はない。ルインは道なき道を全く怯むことなくびしゃびしゃ進んだ。
「霧のせいで視界が悪いね」
「魔物の気配がほぼせん」
「なんでだろ?」
「さあな……」
アイラもルインも首を傾げた。
しかしとにかく、手に入れなければならない素材がごまんとあるため、アイラたちは湿地帯の奥へ奥へと進んでいった。
数メートル先が見えない視界の悪さはなかなかに厄介だ。薄紫色の霧は明らかに人体に有害な物質を含んでいて、結界なしでこの場所に留まってはいられないだろう。雨季によって溢れた水はルインの膝まで到達しており、進むだけでも骨が折れそうだった。日光はこの地に全く届かず、空はひたすらに鈍色で、ギリワディ大森林も薄暗かったがヴェルーナ湿地帯は毒霧のせいでさらに人の気分を落ち込ませるどんよりとした空気が漂っていた。
沼地は、大きな穴ぼこのように点在している。乾季であれば沼と沼の間は地面があって普通に通れるのであろうが、雨季の今は全てが繋がり、巨大な一つの沼と化していた。ではなぜ穴ぼこのように点在しているとわかるのかといえば、ぐるりと縁をめぐるように葦が生えているからだ。背の高い細長い葦は、結界魔法で弾いている今はなんともないが、体に触れるとちくちくする。二人の姿を覆い隠すように生えており、ガサガサかき分けながら進むと驚いた羽虫が音もなく飛び去っていった。
「何も出ないね……」
「うむ」
どこまで進んだのかわからないが、沼地に入って結構経つのに、羽虫以外に生き物の気配がまるでない。一体どこに鳴りを潜めているのか、魔物の住処はどこにあるのか。
中心部分まで来てしまったのではないかと思われるほどに進み、アイラたちはようやく水没していない岩場を見つけた。ごつごつしている岩の上は、アイラとルインが並んで座っても余裕があるほどの広さだ。
「とりあえず……ご飯にする?」
「そうだな」
ルインが頷いたのでアイラは鞍から降り、いそいそと食事の準備を始めた。
「ギリワディ大森林で取ってきた食材使っちゃおーっと」
来る途中の森林で、アイラは食材もとい魔物を狩った。どんな魔物かというと、変なウサギ魔物だ。一度見たことのある魔物なので食べられることはわかっている。ついでに、ダストクレスト周辺にも生えていた、食用可能な野草を引っこ抜いていた。なんと芋まで見つけたので、それも掘り起こして収穫した。爆速で進んでいた割に食料を確保する余裕があったのは、ウサギ魔物の縄張りが食糧の宝庫だったせいだ。肉と共に野菜とエネルギー源もゲットできて大変お得だった。
アイラは鍋の準備をした。
外で鍋をする時は、鍋を吊るすための道具が必要だ。何かないかな、とキョロキョロ周囲を見回したが、残念ながら何もなかった。そもそも視界もかなり悪いのだが、アイラとルインが今いる場所は、なんだか特別何もない。沼地と枯れた葦原が広がっているだけの、ほとんど死地だった。
「オレが咥えようか」
「あ、ほんと? 助かるよ」
アイラは鍋に魔法で生み出した水と、解体処理済みのウサギ魔物肉と、手早く洗って果物ナイフで皮を剥いた芋と、刻んだ野草を入れて、味付けのため少年から買った調味料セットを取り出して塩も加えてからルインの口にぶら下げた。それから鍋の下に火魔法で火を熾す。
メラメラ燃える炎によって鍋底が熱され、水が沸騰し、中の具材が煮えていく。
「おおぉ、いい匂いだな」
「だね〜」
周囲に生きとし生けるものが存在しない死の沼地の真ん中とは思えない、平和でのどかな匂いがする。
「ルインが火に強い体でよかったよ。鉄鍋を直接加えたら、普通大火傷だもんね」
「これしきの温度、すこし熱い飲み物を飲んだくらいにしか感じぬ」
口に鍋を加えたまま器用に喋るルイン。
鍋の中をスプーンで掻き回すと、ますますいい香りが漂ってくる。
一日半走りっぱなしだったルインはさぞお腹が空いていることだろう。いっぱい食べさせてあげよう。アイラの分を取り分けたら、鍋ごと渡して食べてもらってもいいかな、などと考えながら鉄鍋の中身をぐーるぐーると掻き回し続けていると、ふとルインの体がこわばった。
「アイラ」
「ん?」
「へび」
「へび?」
「うしろ」
「うしろ?」
カタコトになったルインの言葉に従って背後を振り向いてビクッとした。
いつの間にかアイラの右脇腹の辺りに、赤子の頭ほどもある切れ長な黄色い蛇の瞳があった。縦に入った黒い瞳孔でアイラを見据え、ゆらりと鎌首をもたげる。胴体が、ギリワディ大森林に生えている木の幹ほどに太い。鱗は紫色をしており、水を弾いて光っている。
しかしそんな蛇よりもアイラを引き付けるものがあった。
ーー岩場に、人の手がある。沼地からぬっと伸びた手はシワシワで爪は長くひび割れており、血の気がまるでない。岩に指を食い込ませると、爪が反り返って根元からもげそうになった。もう一方の手が伸びてきて岩にかかり、続いて見えたのはーー人の顔だった。
白く長い髪に縁取られた顔で、落ち窪んだ眼窩から紫色の瞳だけが爛々と光っている。
アイラとルインは構えた。鍋を置き、狭い岩場の上でできる限りの距離をとり、即時戦闘に移れるようにした。
しかし蛇も人も、敵意はないようだった。
痺れるような緊迫感をものともせず、沼から上がってきた人はバサバサに髪を振り乱し、岩の上に四つん這いになった。妙に大きく光る両目で食い入るように鍋を見つめ、伸び切った爪を震えながら伸ばす。
「……ごはん……」
「ん?」
アイラが首を傾げると、鍋から目を離し、切迫した表情でガサガサの声を再び絞り出した。
「ごはん」
どうやら蛇を引き連れた人外めいた風貌の人物は、空腹らしかった。
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