第42話 フィルムディア大公一家の優雅な朝
バベルの最高階層、百階のテラスに三人の人間が集まっていた。
都市を統べる一族ーーフィルムディア一族の人間が朝食のためにテーブルを共にしているのだ。
海に面したこの場所で、高層階からの眺めに感動するわけでもなく、シングス・フィルムディアは桃色の髪を弄びながら小さなあくびをした。
それを見た、向かいに座っていた薄い緑の髪を肩まで伸ばしている青年は面白そうに笑いを漏らす。髪と同じく、緑色の衣服を纏っていた。青年の細いが程よく筋肉のついた引き締まった体のラインに沿う様な、動きの邪魔をしない様なデザインの服だった。
「天下のアイドル、シングスの無防備な姿が見られるとは貴重だな」
「……だって眠いのよ……昨日、お兄に遅くまで研究に付き合わされたからぁ」
そうしてシングスが髪と同じ桃色の瞳でチラリと隣に座るイリアスを見れば、彼の方は眠気など感じさせない実に涼やかな佇まいで紅茶を飲んでいた。
「おかげさまで良い研究結果が得られた」
向かいに座る緑の青年は、自身の紅茶に角砂糖を三つも入れてスプーンでかき混ぜる。シングスが小さく「うわっ」と声を漏らした。
「セイ兄、相変わらず甘党……」
「今日は体を動かす予定なんだ。糖分摂取は必要不可欠だろう? それにねシングス、私のことはオデュッセイアお兄様と呼ぶようにいつも言っているだろう。何だいその変な愛称は」
「親しみを込めて呼んでいるのよ? そうやってファンと距離を縮めるのも、アイドルとして愛されるための大切な要素なんだから」
「私は君のファンではなく兄だが」
「いいじゃない。まずは身内からよ」
なにを言っても無駄だと思ったのか、オデュッセイアは苦笑を浮かべてからカップを持ち上げる。角砂糖三つが入った紅茶を美味しそうに口に含んでから、長いまつ毛に縁取られたサファイア色の瞳をイリアスへ向けた。
「昨日はどうだった?」
「森林の奥にいるスプリガンの調査を丸一日。シングスの魅了魔法のおかげで随分と研究がはかどりました」
スプリガンは妖精の一種だが、見た目は可愛らしさとはかけ離れている。彼らは醜く、凶暴だ。巨人の幽霊であるともされ、ギリワディ森林の奥深くに住む彼らは縄張りを離れず、一度立ち入ったものを決して許しはしない。
「で、なにを守っているのか突き止めたかい?」
「いえ」
オデュッセイアの言葉に、ストレートの紅茶を楽しんでいたイリアスは首を横に振った。
「ただ、検討はつきます。木の虚に保管されているのは、女神ユグドラシルに関連するものでしょう」
世界を創り、世界を統べるユグドラシルは人だけでなく魔物も愛している。女神からの宝をスプリガンたちは守っているのだろうーーというのがイリアスの見解だ。
「へえ。まあ、彼らから愛する女神様の宝を取り上げるわけには行かないだろう」
「私の魅了魔法でもそれは無理そうだったから、当分他の冒険者に盗られる心配もないと思うよ」
シングスは給仕係が運んできてくれた飲み物を受け取りながら言った。二人と異なり、シングスの飲み物は薄茶色のとろりとしたものだった。数個のマシュマロが浮かんでいる。それを一口コクリと飲むと、シングスはその愛らしい顔立ちに至福の表情を浮かべる。
「んんーっ、ココラータ入りのミルクはやっぱり美味しいわ」
「珍しいな、ココラータを飲むなんて」
「昨日見かけて、久々に飲みたくなったの。この甘さ、癖になるよね」
シングスはスプーンを手に、マシュマロをひとつすくって頬張る。さくらんぼの様な唇が綻び、とろける様な表情を浮かべた。
「おいし……」
「その飲み物は一つで金貨一枚の価値はあるな」
イリアスが色素の薄い瞳でココラータ入りのミルクとシングスの顔を見、思い出したように付け加える。
「ココラータといえば……昨日、シングスが面白い冒険者を発見しました。先日バベルに来たばかりで、初日にジャイアントドラゴンを単身討伐して二級冒険者に登録したばかりのアイラ・シーカーという名前の人で、どうやらシーカーさんと縁がありそうな人物です」
「シーカー殿と?」
「はい。以前報告を受けた、火狐族の生き残りと共にいました」
「へぇ……彼が人間を助けるなんて、珍しい。初めてのことじゃないか」
「ええ。最も彼女はシーカーさんのことについて、なに一つ理解していなさそうでしたが」
「でも実力はある感じだったよね。ココラータをすごいいっぱい収穫してたの。きっと今日は市場でココラータがたくさん売られているわ。あれだけたくさんあれば余力もでるから、次の竜商隊はきっとホクホクよ」
「ジャイアントドラゴンの素材もあることだしね。にしても、そうか……シーカー殿の育てた子か」
オデュッセイアは紅茶のおかわりが注がれるのを見るともなしに見つめつつ思案に耽る。
「父上と母上に報告しておくべきだな」
「そういえば二人とも姿が見えないけど、どこに行ったの?」
「父上はヴェルーナ湿地帯、母上はルーメンガルドの岩窟。ついでに言えば姉上はノストイを連れてパルマンティア海へ行っている。……が、父上は後十秒でお帰りだな」
オデュッセイアのいう通り、テラスに通じる扉が開いて一人の壮年の男が入ってきた。鎧に身を包んだその男は、関節部分を軋ませながらまっすぐテーブルに近づいてきて、一際豪華な椅子に座る。少し頭を反らせてから左右に振ると、長く豊かな黒髪が鎧の上に散った。
オデュッセイアは上座に座った父に頭を下げ、イリアスとシングスもそれに倣った。
「お疲れ様です、父上」
「お父様、お待ちしておりましたぁ」
「湿地帯の様子はどうでしたか?」
「うむ。相変わらずだ。瘴気が満ち満ち、草木が枯れて大地が腐っている。早いところなんとかしないと、被害は広がるばかりだな」
バベルの頂点の座につく、大公ーーギルガメシュ・フィルムディア大公その人は疲れた様にため息をつき、テーブル上に今しがた置かれた黄金酒をぐいと飲んだ。イリアスは気遣わしげに父を見ながら、おずおずと質問を口にする。
「それでは、魔女は……」
「相変わらずだ。ヘルドラドをどうにかしようにも、まずはあれを説得しなければどうにもならん。だが、お前も知っての通り魔女は人の話なんぞ聞かんから、やはりどうしようもない。湿地帯の生態環境への影響がまずいな。皆、アンデッド化しはじめている」
「放置しておくと森林や海にも広がります」
「わかっているわ」
ギルガメシュは口髭を震わせるほど大きなため息をついた。
「かくなる上は魔女ごと討伐するしかない」
容赦のない父の言葉にシングスは眉根を寄せて唇を尖らせた。
「お父様……彼女を殺すの? 魔女は魔物じゃなくて人間よ」
「ほとんど魔物と変わらないだろう。いや、影響力を考えると、魔物よりタチが悪い」
「罪を犯したわけでもないわ。むしろ魔女は被害者よ」
「そう悠長なことを言っている時ではないのだよ。オデュッセイア、頼まれてくれるか」
「ええ、もちろん。実を言うと、そう依頼されると思っていました」
「うむ」
気軽に引き受けた兄と父の顔を見比べ、シングスは頬を膨らませますます不快そうな顔をする。
「二人とも、人の心がなさすぎると思うわ」
「そう言うな、シングス。もう静観している時ではないのだ」
「そうだよ、シングス。我々は女神様よりバベル周辺の地域の管理の使命を承っているんだ」
「一人の命より多くの平和をってワケね?」
「それが管理者たる我らの務めだ」
「ふぅん……じゃあいいわよ。そんなに言うなら、わたし、知らないから」
「どこへ行くんだ、シングス」
「どこでもわたしの勝手だわ」
「待て」
「待ちませーん」
そう言いながらシングスが席を立って軽やかな足取りでテラスの扉に向かうと、イリアスも立ち上がった。
「すみません、父上、兄上。シングスには僕から言っておきます」
そうしてパタリと閉じた扉を見つめつつ、父がため息をついた。
「……全く……お転婆に育ったものだな」
「姉上に比べれば可愛らしいものですよ」
「それは本当にそうだ」
疲れた面持ちで息を吐く父の気分転換にでもなればいいと、オデュッセイアはわざと明るい声を出した。
「ところで父上、先ほどイリアスとシングスから面白い話を聞きましてね。どうやらバベルに、シーカー殿が育てた冒険者がいるそうです」
「なに、シーカー殿が?」
「はい。火狐とともに、色々と活躍しているそうですよ」
「それは面白いな。もしかしたらバベル周辺のイザコザの解決に力を貸してもらえるかもしれない」
「協力を仰ぎますか?」
「ふむ……」
父は針金の様な髭が生えた顎を撫でながら思案した。
おそらく父の脳裏には、長らく一族を悩ませている頭痛の種が一つずつ浮かんでいるはずだ。
たとえばそれは、ヴェルーナ湿地帯に巣食う通称「沼地の魔女」と「ヘルドラド」。
ルーメンガルドに住まう「雪原の覇者」と、岩窟を根城にしている「堕ちた者」。
パルマンティア海を荒らし船乗りたちに恐れられている「海神」。
そしてゴア砂漠を通る人々を惑わせる「砂漠の悪夢」。
どれひとつとっても簡単に解決できる事柄はなく、状況は複雑を極めている。
「まあ、人の手を借りるのは最終手段だ。まずは自分達でなんとかする努力をするべきだろう」
「そうですね。ひとまず朝食に……カラフルベリーを載せてココラータをかけたパンケーキなどいかがです? ホイップクリームも追加できますよ」
「お前のその甘党ぶりはなんかならんのか。シングスが可愛く見えてくるぞ」
「体を動かす分、甘いものを取りたいじゃないですか」
「それにしたって限度というものがある。……あぁ、良い。儂の朝食には蒸したジャガイモと焼いたベーコン、それにパンを」
ごく普通の朝食を使用人に頼みながら、これでもかと甘いものがてんこ盛りになった朝食を取る長男の姿を辟易としながら見つめた。
「ともかく、悩みの種の一つはこれで解決するはずだ。何とかして来い」
「御意に」
優雅に頷いたオデュッセイアは、甘めの朝食を食べる。
遥か天上を見晴るかす地上百階のテラスにて、大公一族が己のウサ話をしているなど知らないアイラは、四十二階の自室にてクシャミをしていた。
「っかしいなあ……花粉かな?」
「裸で寝るから寒かったんじゃないのか。服を着て寝ろ」
「だあって、寝てると暑いんだもん」
鼻水をズビッと啜りながら、アイラは素早く服を着る。
「さて……じゃ、行きますか!」
今日も今日とて、美味しいものを求めて探索へ。
アイラのバベルでの生活は、まだ始まったばかりである。
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