第19話 バベルの内部③

 翌朝目を覚ましたアイラが真っ先に思ったのは「お腹が空いた」だった。

 ベッドから身を起こし、大きく伸びをする。床の上のルインは、もふもふの腹を上にして眠りこけていた。燃える炎がそのまま固まったかのような尻尾が時折ピクピク動いて床の上を叩いている。「もう食べられん……」などと言葉を発しており、さては昨日食べたドラゴンステーキの夢でも見ているなとアイラは推理した。

 体を覆っていたシーツを剥ぎ取り、すっかり乾いている衣服を縄から取って身に着ける。それから髪の毛を高い位置でひとまとめにした。髪も服も石鹸のいい匂いがする。支度を整えたら、未だ眠り続けているルインの元にしゃがみ込み、巨体をゆさゆさと揺さぶった。


「ルイン、起きてー朝だよー」

「ぬああ……ステーキが、ステーキが追いかけてくる……もう食えん」

「ルインールインー」

「うおおお、もう許してくれ……!」

「ルイン!」

「ぬあっ!?」


 ルインのとんがった耳に口を近づけて大声で名前を呼んだところでようやく目を覚ましたルインは、全身をビクッとこわばらせた後にぐるんと体を半回転させ、床に四つ足をつき、身を低くしてから周囲を伺った。


「何だ、敵か!? ここはどこだ!? ステーキは!? ……ぬ、なんだ、アイラか」


 寝ぼけているせいか一人でパニックを起こして周囲を見回したルインは、アイラが視界に入ったところでようやく落ち着きを取り戻したようだった。ゆっくりと上体を起こして座ったところで、自分がどこにいたのかを思い出した。


「そうか、ここはニンゲンの都市の中だったな。ところでアイラ、腹が空いた」

「あたしもだよ。朝ご飯の前にギルドに行って、素材の鑑定が済んだかどうか確認しよう」


 相変わらず文無しのアイラたちなので、まずはお金を手に入れなければならない。

 身支度が済んでいるアイラと、身支度の必要のないルインは、部屋を出て冒険者ギルドへと向かった。

 冒険者ギルドはすでに多くの冒険者でいっぱいで、活気に満ちていた。

 果たして今が何時なのかわからなかったアイラは、ギルドにかかっている荒削りの木製の時計を見ると、すでに時間はとっくに朝を通り越している。かろうじて午前中ではあるが、久々に危機を抱かなかったせいなのか、かなり寝ていたようだ。

 冒険者の間を縫うように歩き、カウンターに近づく。アイラを見つけたブレッドがすぐさまやって来てくれた。


「おはようございます、アイラさん、ルインさん。鑑定が終わりましたが、早速代金について聞きますか?」

「お願いします!」

「わかりました」


 ブレッドはアイラの返事を見越していたのだろう。手に持った長い羊皮紙をカウンターに置くと、内容を説明してくれる。

「鑑定内容は項目ごとに分かれているのですが、どれも非常に状態がいいと担当した職員が驚いていました」

 縦に長い羊皮紙には、素材の項目ごとに何がいくらなのかが書かれていた。牙、爪、鱗、臓物、血液、皮膚、眼球、角など、正直アイラには相場がわからないので説明されてもさっぱりだが、ギルドにお任せしているのだからピンハネなどはしていないだろう。ダストクレストでは油断していると取り次ぎ料と称して凄まじい額を掠め取ろうとする人がいたが、ここではそういう心配はきっといらない、と思う。


「……締めて金貨七百十二枚となります」


 告げられた金額は、今までアイラが聞いたこともないような大金だった。


「わぁー、それだけあれば、しばらく遊んで暮らせるじゃん!」

「通常の都市であれば、そうですが……」


 ブレッドはアイラの言葉に、眉間に皺を寄せた。


「バベルは物価が他に比べてかなり高いので、七百枚あってもそうそういい暮らしはできません」


 衝撃的な話である。

 普通、七百枚もあれば、少なくとも数年は住むところにも食べるものにも着るものにも困らない。固まるアイラを前にブレッドが話を続ける。


「例えば、昨日アイラさんが利用した一時宿泊施設は、一日につき金貨一枚です」

「えぇ!? そ、そんなにするの!?」

「他の都市ならば、同程度の部屋に銀貨五枚もあれば宿泊できるでしょうが、バベルではそうはいきません。他にも、たとえば飲み水は水差し一杯で銀貨一枚、ベーコンは銀貨五枚、黒パン一つで銀貨十枚です」

「た、高い……ダストクレストの十倍の値段がする……」


 めまいがしたアイラは二、三歩後退り、背後にいたルインに「しっかりしろ!」と支えられた。


「物流が不便なので、何をするにも高額になるんです。ここで暮らすには、一定の実力があって稼げなければなりません」

「実力がない人間はさっさと去れってことなのね」

「そうなりますね。まあ、ジャイアントドラゴンを倒す腕前があれば、十分快適な暮らしが送れるとは思いますが」


 ブレッドはアイラの実力を微妙に買い被っている。

 確かにアイラとルインは無傷で、そして一撃でジャイアントドラゴンを仕留めた。しかしいつもいつも同じことができるのかと聞かれればそうではない。あの時のアイラとルインは、肉食べたさに実力以上の力を発揮できた。肉を渇望する心がアイラの神経を研ぎ澄ませ、肉を求める強い気持ちがルインの身体能力を極限まで高めていた。あれは、四十一日もの間ろくな食事を取っていなかったことによる副次的な効果で、常に同じ力が出るのかと言われれば、違うと言う他ないだろう。お腹いっぱい心ゆくまで肉を食べた今のアイラとルインがジャイアントドラゴンを相手にしたら、きっともっと苦戦する。


「それではこれが、金貨です」


 アイラの胸の内をしらないブレッドがカウンターにどすんと金貨を置いた。一枚三グラムの金貨が音を立てて袋の中で鳴っている。


「冒険者登録もついでに済ませますか?」

「うん、お願い」

「かしこまりました。こちらに必要事項を記載していただけますか」


 差し出された書類には、出身地や職業、名前を書くいくつかの項目があった。それらを埋めてから差し出すと、ブレッドが尋ねる。


「名字はありませんか?」

「ない。辺鄙な村出身だし、聞いたことないや」

「大体の方がそう言うのですが、フィルムディア大公様のご意志で、バベルに住む冒険者はすべからく名字が必要になっておりまして……何でもいいので名字をつけていただけないでしょうか」

「んー、何でも、ねえ……」

「憧れている人の名前や、あるいはご自身に縁のある方の名前とかでもいいです」


 アイラは羽根ペンで顎先を引っ掻きながらちょっと考えた。

 憧れ、もしくは縁のある人の名前。そう言われると、一つしか浮かんでこない。アイラが名字の項目に「シーカー」と書くと、ブレッドはなぜか納得顔になった。


「あぁ、貴方もシーカーですか。やはり有名ですからね」

「有名?」

「ええ。シーカーといえば、冒険者ギルドの創設者にして始まりの冒険者として有名でしょう。残している数々の所業も伝説として語り継がれていますし……名字を持たない冒険者は、大体がシーカーという名字にします。なのでシーカーという名字は随分たくさん聞きますよ」

「そうなんだ」


 アイラはその始まりの冒険者とやらは知らないが、するとアイラが知っているシーカーも、その冒険者に憧れてシーカーという名前をつけたのだろうか。しかし彼の場合は名字ではなく名前がシーカーだったよねえと首を傾げる。

 アイラがシーカーについてあれこれ考えている間にブレッドは素早く手続きを済ませてくれた。一度奥に引っ込み、再び戻って来たときには何かを手に持っていた。

 ブレッドは一枚のカードをアイラの前に置く。そこにはアイラの名前が刻印されており、職業は料理人、そして二級冒険者と彫られていた。


「ジャイアントドラゴンを討伐する腕前から、二級冒険者登録となっています。一級に上がるには試験をクリアする必要があるのですが、受けますか? 一級になると待遇が変わり、例えばバベルの上階に住むことができたりしますが」

「んーん、いい」


 アイラはカードを眺めつつ答えた。掌大の銀色に輝くカードは薄いのだが折り曲げられないほど硬く、しっかりしている。


「美味しいごはんが食べられればいいから、住まいはふつーの階に住めたら満足」

「そうですか。住居の説明も受けますか?」

「うん」


 頷くとブレッドは、今度は住居の説明にうつってくれた。


「41から50階の低家賃の居住区は水回りが共同になっていて、部屋は昨日泊まっていただいた、一般的な宿屋の個室程度の大きさです。家賃は最低価格でひと月に金貨三十枚。51から60階も水回りは共同ですが、部屋はもう少し広めです。家賃は最低金貨五十枚から。61階以上の部屋は水回りも個別で、ひと月に金貨二百枚はかかります。最高ランクの71階以上は、一級冒険者のみが住むことができます」

「じゃあ、とりあえず低家賃の空いている部屋にしようかな」

「眺望などによって家賃が変わりますが」

「眺望?」

「バベルは四つの地域に面しているので、選ぶ部屋で景色が変わるんです。一番人気はパルマンティア海に面した部屋で、ひと月に金貨六十枚。一番不人気はギリワディ大森林に面した部屋です。大樹によって視界が阻まれ晴れていても先が見通せず、もし危険が迫っても察知できないせいですね」


 確かに海や雪原や砂漠ならば見通しが良いので遠くまで見渡せ、飛行系や大型魔物が近づいて来たらすぐに気がつくことができる。それに海なら、あまりにも悪天候でないかぎりいい眺めだろう。アイラは海を見たことがないが、湖なら行ったことがあるのでその時のことを思い出した。陽の光が水面に反射し、穏やかな波がさざめき、時折魚が跳ねる様はとても気持ちがいい。少なくとも、薄暗い森の中に林立する苔むした大樹を見ているより気持ちが晴れやかになるのは確かだ。

 ただ、ここでの物価や、部屋では寝起きするだけということを考えると、大金払って海に面した部屋に住まなくてもいいかなぁというのが本音だった。

 幼少期の放浪生活や、ダストクレストでも生活環境が決していいとは言えなかったため、アイラはそんなに高水準の生活は求めていなかった。

 キッチンや水回りは共同でも全く問題ないし、ルインと一緒に寝泊まりできる拠点が必要なだけで、あまり色々なものを求めていない。アイラは隣にいるルインに視線を落とした。


「ルイン、どう思う?」

「オレは寝られればそれでいい」


 決まりだった。アイラはブレッドに向き直る。


「一番安い部屋でいいや」

「承知しました」

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