怒りのバード・アタック(物理)

 4


 童貞と非童貞という矛盾する可能性が重なり合って存在している。

 有名な猫の思考実験さながらの状態。つまり手に負えない。学生喫茶内が突如もたらされた混迷と当惑の極致にあったそのとき、


「まさに紙一重だ」


 と、厳格な調子の声が響いた。


「えっ」

「あなたは……城ヶ崎教授!」


 声の主に気づいた学生たちが驚きの声をあげた。


「紙一重だと言ったんだ。わかるかね、この意味が」


 近くの席で食事をしていた国文学研究の大家・城ヶ崎教授が、足組みをしてむっつりと言った。偏屈なことで知られるこの教授が学生喫茶に現れるのは珍しいことだった。


「もちろん、疑いの余地は大いにある」


 教授は神経質そうにカツ丼の器を指でトントンと叩いた。それから、箸でとんかつの切れ端をつまみ上げて口に運ぶ。ゆっくりと咀嚼し呑み込んでから、やがて言った。


「だが上手い。そしてじつに狡猾なやり方だ」

「それはいったい……」


「皆忘れているかもしれないが、ここは公共の場だ。そういった話題が苦手な者も少なからずいる。だからこそ周囲に配慮しつつも、ごく浅い所感を述べたのだと捉えることもできる」

「ほう、彼もまたひとりの紳士、というわけですか」


 ティーチング・アシスタントの院生が感心したようにうなずいた。


「そうだな。それに見るといい、あの青年の曇りなき眼差しを」


 教授は講義口調になって話を続けた。


「理解とは、心からの納得と実感を伴うもの。あれは実際にそれを見て触り、自分の中に落とし込み、そして納得した。そういう者の顔だ。彼は真におっぱいが意外と下の方にあることを理解している」

「では、つまり彼は――」

「童貞ではない! いま、裁定はここに下った。彼は童貞ではない。そういうことになった!」


 立ち上がり高らかに宣言する教授。

 謎の歓声が上がる。


 よかった。私は安堵した。頭でっかちで口だけの哀れなチェリー男などいなかったのだ。当の将幸はといえば、相変わらず額に大粒の汗をかいて青くなっていたが、それはあらぬ疑いをかけられたからだろう。故なき糾弾は人を追いつめる。


「おれは信じてたぜ、あのエロの伝道師が童貞のはずがねぇ」

「あいつのエロへの執念と熱意は紛れもなく本物だからな」

「一瞬でも疑った自分が恥ずかしいよ」

「あ、ああ。当然だろ、おれは期待を裏切らない男なんだ」


 将幸は手の甲で汗を拭いながら大儀そうに答えた。若干声が震えているのは武者震いだろうか。きっと怒りに打ち震えているのだ。いわれなき理不尽への怒りのために。ヤツはこんなところで終わる男じゃない。私は知っている。


「いいぞ! ぶっとばせ、将幸っ!」


 気がつくと私は身を乗り出して叫んでいた。周囲が一斉に私を見たが、そんなことは気にせずに声を振り絞って、伝える。


「経験人数の差がなんだ! あんたにはそんなつまらないカスみたいなことより、良いところが色々、ええと、たくさん……ある……ちょっとまって」


 フォローに詰まり、私は必死に考える。将幸の良いところは……。馬鹿で善良、オモシロ枠の筋肉だるま、パリピで人たらし……困った。あんまり大声で褒められることがない。


「…………」


 なかば途方に暮れた私は、やけになって叫んだ。


「ティンがデカいッ!」

「ああ!」


 将幸は力強くうなずいた。それから、再び石川先輩のほうに向き直った。


「先輩の異能には弱点がある。おれが口を閉ざせば無力だという致命的な弱点が」


 言いながら将幸は固く拳を握りしめた。呼応するように股間の鳥が『クェーッ!』と鳴く。すると全身から赤い靄のようなオーラが噴き出して、彼を包み込んだ。


「なっ……自己強化能力だと……!」


 石川先輩が驚いて声を上げるが、そんなことは意にも解さず、


「いつかは……」


 と、将幸が言った。素早くステップを踏み、石川先輩との距離を詰める。


「おれだって、いつかはいい人止まりを抜け出してやらぁ!」


 裂帛の気合いとともに繰り出したのは右腕を大きく振りかぶったテレフォン・パンチ。素人目に見ても技巧など全くない、ただただ力任せな一撃だった。


「ぐぼあああァ……!」


 繰り出した容赦のない拳が石川先輩の頬をとらえ、彼は宙をきりもみ回転しながら盛大に吹き飛んでいった。さすがはミスターコン優勝者だった。もはや散り際すらも美しい。


「……負ける気はしませんでしたよ。悪いけど、最初はチュートリアル戦と相場が決まっているんでね」


 ふてぶてしい笑みでうそぶく将幸。普段は馬鹿が馬鹿やってるだけの大馬鹿男なのだが、ふとした瞬間にのぞく勝負師の顔があった。ヤツはここぞという大一番の勝負は決して外したことがない。


 サークルの馬鹿連中と倫理観と味覚をドブに捨てた闇鍋パーティを開催した時も、デジタルタトゥー・ルーレット大会に興じた時も。あるいは背後からのドキドキ直腸吸収スピリタス・アタック(防御貫通)をノールック回避した時もそうだった。類まれなバランス感覚で勝利を引き寄せる才能があった。思い返すとガチでろくなことをやっていないが……。


「まったく……」


 拳を天に突き上げながら大歓声を浴びる将幸を眺める。今はただの馬鹿でも、いつか遠いところに行ってしまうのではないかと心配になる。


「きったない尻、しまいなよ」


 背後から近寄って尻を叩く。ペチン、という乾いた間抜けな音がして、将幸は振り返った。


「なんだよ、筋肉質でキュートだろうが」


 私は肩をすくめた。石川先輩の方に目をやれば、学生喫茶の壁でバウンドした後、うつ伏せに伸びていた。手元の床を見れば、血文字で『大は小を兼ね過ぎる』と残されている。私にはわからない悩みだった。


「帰るか……後で飲み行こうぜ」

「そだね」


 特に用事もなかった私たちは揃って大学を後にした。

 マンションへの帰り道を歩きながら、私は横にいる将幸の顔を見上げた。


「将幸」

「んー?」


 彼は暢気に振り返った。いつもの間抜けな顔。私はこいつが馬鹿やっているときの顔がわりと好きだった。あどけない少年のような悪戯っぽい笑顔が目に眩しい。


「童貞なの?」

「どっ……なんでそんな話になる?」


 噴き出す将幸を私はじっと見つめた。


「違う! 童貞ではない。断じて」

「ほんとうに?」

「本当だ」

「と、見せかけてじつは?」


 動揺する瞳を覗き込む。将幸は目を泳がせた後、神妙な顔つきになって言った。


「……バキバキの童貞ですが?」

「それは草だわ」


 私は鼻で笑った。


「じゃあ今もフリーってわけ?」

「悪いかよ」

「いや、べつに? いいと思うよ、うん」


 だめだ。なんとなく頬が緩んできた。手で触れてそれを確認すると、私はにやにや笑いを将幸に気取られないようにそっぽを向いた。


「よくねえよ」

「そう? じゃあ、もし私が……」


 と、言いかけて正気に返った。待った、私は今なにを口走ろうとしていた?


「え、私が、なんだって?」

「今のはナシ」

「だから、なんの話を」

「うるさいな。なんでもないって……」


「すみませーん、ちょっといいですか?」


 唐突にかけられた声に顔を上げれば、紺色の手帳をかざす制服の男が目前に。もしかしなくても警察手帳。すなわち警官だった。にこやかな調子で声をかけてきているものの、目はまったく笑っていない。


「え、なんですか?」


 好青年らしく愛想良く訊ねる将幸。

 職質だろうか。この真昼間に? 思わず将幸と顔を見合わせる。そして数秒遅れて、私は恐る恐る彼のシモに目を向けた。


「あ、やべっ……」


 私もたった今気づいたのだが、隣を歩く将幸は下になにも身につけておらず、股間には鳥。お終いだった。もうすでに色々と手遅れだった。


「ドンキで! ドンキで買ったんですぅ!」


 必死の弁解の言葉もむなしく、警官は将幸の肩にポンと手を置いた。それから警官は私の方に振り向くと、


「それで、きみは? この人と知り合い?」


 私は無言で首を横に振った。


「いいえ? 知らない人ですね」

「うっそだろおまえ……!」


 問答無用で将幸は警官に連れていかれた。職務に忠実で頭が下がる思いだった。

 去っていく警官たちを見送った後、私はぐっと伸びをした。

 とりあえず、初夏の陽気が心地いい。麗かな日差しが散歩日和だった。時折吹く生ぬるい風が街を通り抜けていく。


 そうだ、コンビニでアイスでも買って帰ろう。ふと私は思い立った。王道のバニラもいいが、今は抹茶の気分だ。そういえば、さくらんぼ味なんてあっただろうか。


「あー、あっつい」


 コンクリートがじわじわと太陽を照り返していた。

 夏が近づいている。


 …………。


 近い未来、股間鳥の宿命によって将幸は、股間に最強の鳥類ヒクイドリを引っさげた悪徳教授との必修単位を賭けた激戦に巻き込まれたり、滅びと停滞を謳う大怪鳥ソングバードと死闘を繰り広げたりすることになるのだが、それはまた別の話。いつかの機会に。



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たとえ股間が鳥になっても僕らは――怒りのバード・アタック 安永鳩代 @ysng

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