シュレディンガーの◯◯

 3


 コインが床に落下した。

 次の瞬間、石川先輩が驚くほど俊敏な動きで、真上にズボンを蹴り上げた。パンツごと脱げたズボンは天井へと高く舞い上がり、照明に掛かり垂れ下がった。


「あれは小手調べのノータイム脱衣……?」


「クイックドロウ――夜を共にした数多くの女子が一度は目にした技能だ。ゆとりのあるボトムスを瞬時に地に落とし、蹴りの遠心力でそのまま脱ぎ捨てる。どういうわけかパンツごと。一夜限りの男なのでマジに一度だけなのが辛いところだな……」


「本人も気にしてるからやめてやれ。というか嘘でしょあれいっつもやってるの……?」


 外野の面白がるような野次に、石川先輩は憮然として答える。


「コトに及ぶときは服を脱ぐ。であれば無駄なくスマートに、だ!」

「くっ最高にカッコ良い……これができる男の流儀ッ……!」


 いたく感銘を受けた様子の将幸に石川先輩が言い放った。


「抜きなよ後輩。待っててやるよ」


 機先を制しながらも、惜しげもなくアドバンテージを手放す格上の余裕。対する将幸は不敵に笑った。


「いえ先輩、おれもう脱いでますよ」

「なんだと?」


 怪訝そうに眉根を寄せる石川先輩。

 将幸が身に付けているスキニーに内側から無数の亀裂が走ったかと思えば、次の瞬間、木っ端微塵にはじけ飛んだ。


「いま何を……?」


 困惑した様子の石川先輩だったが、それは私も同じだった。いつの間にまたこんな無駄な宴会芸を身につけていたとは。


「おまえには視えたか? さっきのヤツの動きを」

「ああ。彼がしたことは単純だ。周囲がミスターのクイックドロウに目を奪われた隙に、下半身に力を入れた。やったのはそれだけだ」


「だが――あれはどういうことだ?」


 腕組みをしながら、訳知り顔で語り合う外野の二人組。また変なのが増えている。男が口笛を吹いて言った。


「ヒューッ! 見ろよヤツの筋肉密度を。あの鍛えられた肉体。普段は窮屈に服の下に縮めたこれを解放すると、つまり」

「隆起する筋肉――ズボンが負荷に耐えられなかった……そういうことだな?」

「ああ」


 はち切れんばかりの筋肉の厚みで、スキニーを内側から圧迫しはじき飛ばした。そういうことらしい。誰だか知らないが、いまは有識者の解説がありがたかった。


 後ろから見る限り、いくら鍛え上げられていようが小汚い生尻にしか見えなかったが、指摘するのはいささか野暮というものだろう。脚も見事なものだ。細身だが確かな存在感のある臀筋、主張の激しい巨大な大腿四頭筋――圧巻の筋肉だった。


「はは、自分、趣味が筋トレなもんで」

「……どうやらきみをただのバード・ルーキーと侮ってはいけないようだ」


 ふてぶてしく答える将幸に、石川先輩は表情を引き締めた。


 互角。

 正直、もうなにがなんだかわからなかったが、どうやら対等に渡り合っているらしい、という印象を受けた。いや、そんなんと渡り合わなくてもいいんだけれど……。


「一見、冴えない男に見えるが、こいつはなかなかやるかもしれねぇ」

「ククッ、とんだ食わせ者だな」


 感じ入るところがあったのか、うなずき合う男たち。

 

「やはり使わざるを得ないか……いくぞ、カイゼル・シュタイナー」


 石川先輩の局部にいる雀がチュン、と健気に鳴いた。ひときわ大きく響いたその鳴き声は空気を振動させ、こだまのように周囲に乱反射した。


「これは……?」


 うまく表現できないが、場の雰囲気がなんとなく変化したのがわかった。

 周囲一帯になにか別種の法則が働いているかのような、違和感。


「環境干渉タイプか。ああいう手合いは長射程でトリッキーな能力を持つことが多いな。こいつは苦戦するぜ」

「馬鹿正直なパワータイプなら、なおさらだな」


 したり顔で分析する股間鳥評論家。造詣が深いというか、本当にこの人たちは何者なんだろう。こんな珍妙な分野の専門家など聞いたことがない。というか需要ないだろ……。


「あの、鳥っていったいなんなんですか」


 私は思い切って疑問をぶつけてみることにした。親切な有識者たちは答える。


「男にとってブツは己が半身にほかならない。そして、極限に鍛えられた半身は鳥の姿を写しとることがあるという。それが異能を持つ幻鳥〈バード〉の正体だ」


「あるいは《Brimming Illusions Relevant to Desires》の頭文字を取ってBirdという説を聞いたことがあるが、その根底にあるものは同じだな」


「というと?」


 私は訊いた。男たちは口を揃えて言う。


「精神エネルギーだよ」

「は、はあ……」


「若さありあまる精神エネルギーが鳥を象っているということだ。欲望が極まるとティンが鳥から戻らなくなるというが……まあいい。ところで、異能は本人の性質を反映しているらしいな」


 男は意味ありげに石川先輩を見やった。雀がチュンチュンと健気に鳴いている。人の局部に付いていなければ可愛らしいのかもしれないが、もうなんか絵面が絶望的だった。


「どうしろと?」


 本体である石川先輩は髪をかき上げると、自信たっぷりに言う。


「先に宣言しておこう。僕の鳥はさしずめ『舌切り雀』だ。御伽噺とは違って、僕に対して嘘をついた相手の舌を切断する」

「こわっ……」

「確実に三枚におろす」

「物騒すぎるだろ……」


 あきれた顔で呟いた将幸だったが、石川先輩は余裕そうな表情を崩さない。ハッタリを言っているわけではなさそうだ。それを裏付けるように、


「おや、信じていないのかい?」


 と、さらに笑みを深めて話を続けた。


「例えば、そうだな……実演してみようか」

「実演?」

「そうだ。じゃあ軽い質問だ。いままできみは何人とヤッた?」

「いきなり下品だな、この人!」


 将幸は叫んだ。

 しかし、私たちは大学生。酩酊するチンパンジー。はなから理性などない。下世話な話を何よりも好む生き物だった。節度というものを知らないのだ。


「わかってるじゃん、さすがミスター」

「なんだぁ、答えられないのか?」

「おい、みんな、聞きてぇよなあ?」

「聞きたーい!」

「うわもう最悪かよコイツら……」


 周囲の悪ノリが加熱し始めたのを感じ取ったのか、将幸は頭をかかえた。

 嘘をつけば舌を切られるが、偽りなく答えればまったく脅威ではない。とはいえ、正直に答えるのにも、プライドがあると言うわけか。


「べつに答えなくても構わないさ。きみがつまらないヤツだってことをみんなが知るだけだからね」

「くっ」


 将幸は悔しそうに歯噛みした。場は完全に石川先輩に掌握されている。

 なぜ答えないのだろう。私は首をひねった。

 男という生き物は経験人数の多さを嬉々として自慢するものではないのだろうか。将幸だって見かけるたびに毎回違う女と歩いているのだから、さぞ遊んでいるだろうに。オモシロ枠に数えられがちではあるが、女子のなかでも密かに人気があるのを私は知っている。


「ふむ……答えないのではなく、答えられない?」


 考え込むように石川先輩がぼそりと呟いた。その言葉に耳ざとく反応した者たちがいた。


「ヌッ!」

「そうか、わかったぞ!」

「奇遇だな。おまえもか。さてはヤツはエロの孔明! どッ童貞だ!」

「知識だけの男。大学生になっても存在したとはな。チェリーボーイとは」


 対峙する二人を囲む外野が面白がるようにはやし立てる。なかば煽る勢いだった。


「なっ……おれは――」

「童貞?」


 石川先輩が理解しがたい単語を耳にしたような怪訝そうな表情を浮かべた。


「あの? まさかあの童貞か? そういった人間もいると聞くが……」

「ふざけんなファミレス行ったことないお嬢様みてえなこと言ってんじゃねぇぞ。おれだって――」

「あ、おい、気をつけろよ。嘘ついて適当な数言っても舌切れるから、念のため」

「うわあっぶな……」


 将幸はあわてて口を抑えた。だが、煮え切らない態度に痺れを切らした者たちがいた。


「はいもう待てませーん! じゃ、カウントダウン始めまーす! 五――」


 過激派の外野が、面白がってついにはカウントダウンを始めた。これにあわてたのが将幸だ。


「ま、まってくれ、頼む! せめて、せめてストレッチマンのカウントぐらいゆっくり数えてくれ!」


 とち狂ったのか、わけのわからない懇願をする将幸。

 その様子にさすがに可哀想だと思ったのか、石川先輩が苦しげに叫んだ。


「ならば言え! 言うんだ! 童貞にはわからないことを! それがきみが童貞ではないという証拠になる」

「くっ、どうすれば……!」


 酷くうろたえた様子の将幸。顔はすっかり青ざめ、焦りからか唇はわなわなと震えている。「三――二――」カウントダウンは無情にも続いている。


「まさか、きみは本当に童貞なのか?」


 そんなことは考えもしなかった、と困惑気味の石川先輩。

 どこかいたたまれない空気が漂ってくる。


「いーち――」


 周囲の視線が将幸に集まる。好奇心と期待の眼差しを一身に受けた将幸は、ゆっくりと目を瞑った。そして、


「う、うおおおおおおおおおおお!」


 覚悟の雄叫びをあげた後、それから真顔になって彼は言った。


「なんか、あの、そうおっぱい。その、女の人のおっぱいの話なんですけど、服脱がすと、想像してたより下の方についてるんだな、と思いました。はい」


「………………」

「………………」


 周囲に沈黙が落ちる。外野の冷やかすような野次と笑い声がなりを潜め、痛いくらいの静寂がその場を支配していた。誰もが思案げに顔を見合わせる。


「これは……その、判定は?」


 誰かが戸惑ったように言った。おそらく場の総意だった。将幸が口にしたのはたしかに『童貞にはわからないこと』なのだろう。その証拠に彼の舌は切られてはいない。


 だがしかし、それ自体だけでは彼が童貞でないことを証明できない。童貞と非童貞という相反する概念が彼の上で重なり合い、複雑な輪郭が将幸という像を結んでいた。



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