110:雪げぬ穢れ(side:ヴァン)
与えられた猶予は一週間……ナナシは未だに答えを出さない。
仮眠室から出で来ず。
此方が呼びかけても碌な返事が返って来ない。
イザベラの怪我の状態も安定し、家に帰る運びとなった訳だが……まぁアイツ等もついてくるわな。
あわよくば、黙って帰るつもりだったが。
医療スタッフもSAWの奴らもアイツ等の味方だ。
イザベラを輸送機に載せてれば、何時でも飛べる体勢に入るだろう。
いや、振り切れたとしても居場所はとっくにバレている。
恐らくは、ナナシが首輪をしている限りは何処に逃げても同じだろう。
異分子が管理されるという事は、生活すらも筒抜けになるという事で……嫌な奴らだ。
輸送機内でたばこを噴かせながら。
俺はボケっとした面で空を見ていた。
どんよりとした曇り空であり、そろそろ降ってきそうな気配がする。
降って来る前にイザベラを載せて、暗くなる前には此処を発ちたい。
報酬は既に受け取っていて、色もたんまりとつけてもらった。
文句はなく、後は家族全員で帰るだけだ。
ゆっくりと煙草を摘まんで煙を噴く。
そうして、携帯灰皿へと突っ込んでから立ち上がろうとした。
「よし……ん? ナイトか。何してんだ、お前」
イザベラを迎えに行こうとすれば、ナイトとナナシが呼んでいた犬が座っている。
その口には何かを咥えており、奴が口を此方に向けて来る……くれるってか?
俺は笑みを浮かべながら、ナイトが口に咥えたそれを受け取る。
よく見てみれば、何の変哲もない野球ボールだった。
誰がこんな所で野球なんかをするのかと思いつつ、俺はナイトがこれを投げて欲しいのかと思った。
遊んでいる時間は無かったが……一回くらいなら良いか。
「ほぉらナイト! よーく見ろよ……いけ!」
「わん!」
俺はボールを軽く投げる。
すると、ボールはすぐ近くの床に当たり――光が広がった。
一瞬の閃光。
それがドーム状に広がって、俺は驚く暇もなく光に飲み込まれた。
そうして、光が消えた時に俺は辺りを見渡して――え?
俺はゆっくりとその場から離れる。
そうして、椅子に座っている”自分”を見つめていた。
ボールを投げた後の姿勢で固まっている。
ナイトもボールを追いかけようとした状態で止まっていた。
まるで、時間が止まったかのように俺もナイトも微動だにしない。
いや、時間が止まったというのもあるが俺の魂が肉体から切り離されたような感覚もする。
俺は冷静に自分に何が起きたのかを考えようとして……ゆっくりと振り返る。
「――なッ!?」
「……」
そこには怪しげな防毒マスクのようなものつけた人間が立っている。
漆黒のローブを身に纏い、静かに殺気を放つそいつは――碧い獣か。
ナナシから聞いていた通りの風貌で。
俺は奴を警戒しながら、此処は何処なのかと尋ねた。
奴は応えない。ただ黙って俺を見つめて――視線を逸らす。
「……弟は……そっちか」
「――ッ! テメェナナシに何をする気だッ!!」
ナナシのいる仮眠室を一瞬で発見し、そこへ向かおうとする碧い獣。
狙いの見えない奴へと俺は殴りかかろうとした。
がら空きの後頭部目掛けで拳を振るい――すり抜ける。
「うあ!?」
「……」
俺の体が床に当たる。
しかし、妙な感触であり痛くもかゆくもない。
それどころか音すらも鳴らなかった。
俺は奇妙に思いつつも、ゆっくりと進んでいくアイツを止める為に奴の体をすり抜けて前に立ちはだかる。
両手を大きく広げながら、俺は叫んだ。
「止まれッ!! とま――おい!」
「……」
奴は完全に俺を無視して進んでいく。
体をすり抜けていき、真っすぐにナナシの元を目指していった。
そうして、廊下を進み仮眠室に繋がる扉の前に立ち――扉をすり抜けていく。
「はぁ!? 嘘だろ」
奴は部屋の中へと入って行ってしまった。
俺は慌てて奴の後に続こうとした。
しかし、勢いよく扉に当たり弾かれてしまう。
俺は痛くも無いのに顔を摩りながら、どうすれば奴と同じように入れるのかを考えて――イメージか?
床をすり抜けられる筈がない。
そういった固定概念によって俺は足を床につけられている。
扉もそうであり、すり抜けられる筈がないと頭で思い込んでいる。
そういったイメージが作用しているからこそ、すり抜けられないんじゃないのか?
奴の体をすり抜けられたのは、奴自身がそうするように仕向けたからだろうが……やってみるしかない。
「集中、集中……ぅ!」
俺はゆっくりと立ち上がり顔を叩く。
そうして、意識を集中させて固定概念から抜け出そうとした。
必死になって扉はすり抜けられるものだと思い込み。
静かに扉に手をついて――すり抜けていく。
この奇妙な感覚。
これだと実感し、俺は更に体を動かして扉の奥へと入り込む。
そうして、目を閉じながら潜り抜けてゆっくりと開けば――ベッドで仰向けに転がるナナシと”碧い獣”がいた。
「……は……え……ぇ……は?」
「――黙れ」
碧い獣が殺気を放ちながら、俺に黙る様に言う。
いや、可笑しい。
奇妙な光景が目の前に広がっているんだぞ。
ナナシがベッドに横になっているのは分かる。
此処は仮眠室で、横になりながら答えを考えていたんだろうからな。
だが、碧い獣の状態だけは理解が出来ない。
何故、奴は備え付けられている椅子に座らない。
いや、座らなくてもいい。
奴の近くで立っているだけでも違和感は無かった。
だが、奴はあろうことかあの狭いベッドの上でナナシの横で倒れている。
手を胸の前で組みながら、奴は何故か殺気を消して大きく深呼吸をしていた……は?
自分の頭の中で状況を整理しようとした。
が、整理しようとすれば自動的にシャットダウンしそうになる。
俺は目を必死に擦りながら口を大きく開けていた。
奴はそんな俺の動揺を無視し、静かに言葉を発した。
「……弟は、神に会いに行くだろう……それを止める事は、私にもお前にも出来ない」
「……分かってる。それだけ神に逆らう事は恐ろしいからな」
「あぁそうだ。人が神を恐れるのは至極当然の事だ……神はこの世界にとっての根源であり、全ての支配者だ。この星も、広大な宇宙も――全てあの女が生み出したものだ」
「……だったら、黙って見てろってか? そんな事を言う為に、態々、こんな手の込んだ仕掛けを使ったのか? それなら」
「――神を受け入れるな。神の全てを信じるな」
「……っ!」
俺は奴を見つめる。
奴は仰向けの状態で寝ながら、ハッキリと言った。
「アレが言う言葉は真実だ。しかし、真実だけが全て正しいとは限らない……人間は一つの真実であろうとも、捉え方によってその答えの形を変えてしまう。アレは嘘は言わないが、ハッキリとした真実を話すことも無い……ただ朧げに。見え方の一つを提示するだけだ。その見え方で相手が納得すると分かっているから」
「……何だよそれ。それじゃ神っていうより……悪魔じゃねぇか」
「……古来より、神も悪魔も存在するものだが。人によっては他者の信仰する神を悪魔とする者もいた……表裏一体。神も悪魔に成り得てしまう……我々から見れば、今の神は悪魔そのものだ」
奴は全く恐怖する事無く断言した。
神を恐れていないのか。それとも、此処は安全だとタカを括っているのか……そんなのはどうでもいい。
「答えろよ。何をしに来た……まさか、ナナシと添い寝する為に」
「――そうだ」
「……冗談言ってんじゃねぇぞッ! 人をおちょくるのも大概にしろッ!!」
「……?」
碧い獣は俺を揶揄う。
奴は天井を見つめるだけで一言も発さない。
目的を明かすつもりがないのか。
いや、明かせないのか……どうする。
恐らくは、あの野球ボールがこの空間を生み出した装置か何かで。
アレを壊せば、俺はまた元の世界に戻れるだろう。
いや、元の世界というよりは肉体に戻れると言った方が良いか。
俺は考える。
此処から抜け出す為の方法を考えて――奴が声を発した。
「あぁ……お前の事は調べさせてもらった。過去に罪なき家族を殺した愚かな兵士よ」
「――あ?」
俺は奴に視線を向ける。
奴は俺が仕出かした事を調べていたようで。
俺は奴を睨みつけながら、それがお前にとって何なんだと問いただす。
奴はゆっくりと体を起き上がらせる。
そうして、ベッドの縁に腰かけながら、奴はそっとのナナシの頭に触れた。
「お前が殺した家族の中には、小さな子供がいた……幼い子供で、その子供はお前の仲間の銃弾で倒れた」
「……何が、言いたい」
「憶えているか? その子供の最期を。その子供が撃ち抜かれた体の”場所”を」
「何を、言って……いや、まさか……そんな、筈は……嘘だ」
俺の頭に一つの可能性が過る。
今の今まで考えもしなかったもので。
絶対にあり得ない事だと断言できるほどに、ある筈の無い可能性だった。
それはかつて殺めてしまった小さな命が――生きている可能性だ。
心臓の鼓動が大きくなった。
ドクドクドクと脈打ち、耳に木霊するように響いている。
暑くも無いのに汗が吹き出し、呼吸が少しずつ乱れていく。
この感覚を俺は知っている。
奴の言葉を聞いて、頭の中に小さな可能性が浮かび上がり――恐怖している。
いや、そんな筈は無い。
公式の記録では、あの一家は死んだことになっていた。
生き残っている人間はおらず。確かに死んだと聞かされた。
だが、もしも、もしもだ……”異分子”であったのなら?
公式の記録に残るのは”人間”だけだ。
異分子の死に関しては記録に残る可能性は低い。
雑に対応されて、不利益な情報であれば権力者の手で記録自体が抹消される場合が大半だ。
あの現場には特別な命を受けた俺たちがいた。
神が指示したと言っても過言ではなく、そんな重要な任務の中で罪なき人間を殺したとなれば……っ。
だからこそ、生き残りがいると分かれば消される可能性が高い。
生きていれば何れ真実にたどり着く可能性がある。
その時に騒ぎを起こされれば、面倒事になると軍の上層部も知っていた筈だ。
だがもしも、その生き残った人間が異分子であるのなら……送られる筈だ。
何も知らない子供。
奴らにとって幸運な事に、その子供の記憶自体が抜け落ちているのであれば、殺す手間はいらない。
他の身寄りの無い子供同様に、軍へと送り過酷な戦場へ行かせれば……勝手に消えていく。
知っている。奴らのやり方だ。
邪魔な存在を労力を使わずに消すやり方で。
逆に言えば、それだけしか生き残る術はない。
過酷な戦場であろうとも、今まで送られた異分子の兵士が漏れなく死んでいたとしても。
生き残れる可能性は決してゼロではなく、目の前にそれを成し遂げた人間がいる。
遥か天より垂れ下がる蜘蛛の糸のようなものを掴んで生き残ったのであれば――っ!
あの子供は、あの男の子は確かに――”額”を撃ち抜かれていた。
ハッキリと憶えている。
目の前で銃弾を頭に撃ち込まれた少年の顔を。
黒い髪に、青い瞳をしていて――同じだ。
ベッドで眠っている男の顔。
ゆっくりと近づいて顔を覗き込めば、開かれた瞳の色は青で。
同時の面影はそれほどないが、あの少年と似ている。
そして、決定的なのはこの頭に巻いたバンダナで……聞いていた。
バンダナを掛けた理由をミッシェルから聞いていた。
昔の傷を隠す為のものだと聞いていた。
その時は何も思わなかった。そういうものだと勝手に納得し。
今の今まで、こいつの額の傷を見る事なんて一度も無かった。
怪我を負えば、医者たちが治療し。
包帯を取る時はミッシェルがやってくれていた。
俺は忙しくて見ていられなかった……それが此処に来て繋がる。
俺は両手で顔を覆う。
動悸が激しくなり、呼吸がし辛くなっていく。
心が氷のように冷たくなっていき、歯をガチガチと鳴らした。
苦しい、苦しい、息が、出来ないほどに――苦しい。
心臓を両手で握りしめられたように痛くて苦しい。
生きていた。その事実が――俺の心を激しく締め付けた。
「は、は、は、は、は……あぁ、あぁ……そ、んな……うそ……何で、何で……お前が」
心がギリギリと締め付けられていく。
息が出来ない。それなのに心臓は鼓動を速めて。
俺はふらふらと後ろへとよろめき、足をもつれさせて尻もちをつく。
視界がぐにゃりと歪んでいく。
平衡感覚が消えていき、強い吐き気に襲われた。
見ていられない。ナナシの顔を見られない。
生きていた。本来なら嬉しい事なのに、その事実で胸が強く痛みを発する。
心臓が張り裂けそうなほどに鼓動して、両目が激しく揺れて何かが垂れ落ちていく。
苦しい、辛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛――あぁ。
全部、この日の為に……俺が罰を受ける為の……そうだ。
この日まで俺が生きていられた理由。
幸せになろうとしていた俺への罰だ。
幼気な子供の未来を摘み取り、大切な家族の愛を奪った――俺の罪。
大きな夢、戦争を根絶し身寄りの無い子供たちを救う為……違う。
新しい仲間を家族として迎え入れて、どんな困難も一緒に乗り越える……違う。
違う、違う、違う違う違う違う違う違う違う違う――まるで違う。
夢を持ったのは、それを追いかけたのは辛いを現実を忘れる為に。
新しい仲間を家族と呼んだのは、それで自分の罪を消そうとしたから。
全部だ。全部ただの偽善で――俺自身を守る為だった。
「ちが、ち、が……違う、違う……そんなんじゃ……俺は、俺は……っ」
俺は両手で顔を覆いながら、ポロポロと涙を流す。
腐った水であり、汚らわしいそれが床を汚す。
俺の目に映るそれは黒く濁ったヘドロのようで……汚い。
止めようとしても溢れて零れ落ちていく。
強く顔を掴む。強く強く、血が滲むほどに掴む。
痛くない筈なのに、痛みを発しいている気がした。
苦しくない筈なのに、呼吸が出来ないほどに息苦しい。
自らの手で空気が取り込めないほどに口を覆う。自らの手で終わりを手繰り寄せようとした。
が、その時は訪れず――腹を蹴られた。
「あがぁ!?」
「……」
思い切り蹴られてドアに体を打ち付けた。
俺は体を掻き抱きながら、ガチガチと歯を打ち鳴らしながら奴を見つめる。
防毒マスクをつけた奴は俺の前に立ち、ゆっくりとしゃがんでから俺の髪を乱暴に掴み視線を無理やり合わせた。
奴は何も言わない。静かに殺気を放ちながら、俺の目を見ていた。
奴のマスクのレンズには、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった俺の顔が映っている。
汚い、醜い、汚らわしい。今すぐに――死ね。
「……お前の感情に意味はない……悔い改めようとも、自ら死を懇願しようとも……お前の罪は消えない」
「……分か、ってる……分かって、んだよ……でも、だからって、俺に何が……」
「教えてやる。お前が出来る唯一の救いを――弟を。ナナシを正しき道へと導く術を」
「何を、言って……信じろって、言うのか……」
俺はガラガラの声で奴に問いを投げる。
信じるべきは神なのか。それともお前たちなのか。
奴は静かに言葉を発した。
「私は弟の為なら――この命を捧げられる」
「……っ!」
俺は奴の目を見つめる。
奴はゆっくりと防毒マスクを取る。
そうして、現れた顔にはナナシと同じ綺麗な青い瞳があって――本物だ。
本心から言った言葉。
確かな決意が込められた声で。
奴の瞳には死を厭わないという覚悟が満ち満ちていた。
神とは違う。
奴はこんな目を俺に向けた事は無い。
奴は誰であれ本心を語ろうとしなかった。
だが、こいつは顔を明かしてまで俺に決意を示してきた。
まだ何も分からない。
こいつが敵である可能性はまだ残っている……だが、神よりはマシだ。
あんな得体の知れない何かよりも。
人間味のある言葉を吐いたこいつを信じてやる。
俺はゆっくりと髪を掴んでいる奴の手を掴む。
そうして、その手を離させてから手を握った。
強く強く握りながら、俺は真っすぐに奴を見つめる。
「教えろよ。その救いとやらを……俺も覚悟は出来た」
子供の未来を奪ったんだ。
大切な両親の記憶を消させてしまったんだ。
その罪が消えない事は分かっている。
だからこそ、俺のこの命は――”あの少年”の――”ナナシ”の為に。
奴は微笑む。
そうして、顔を近づけて耳元で囁くように聞かせて来た。
俺はそれを静かに聞き、大きく目を見開いて――――…………
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