はじまりのとき
遊月奈喩多
突如下った啓示
『さぁ、始めましょう』
ある朝、
そもそも啓充が住んでいるのは取り壊しを待つばかりの廃アパートだ。雨風を凌ぐために忍び込んだはいいものの、管理するものもないために水道や電気も使えず、モバイルバッテリーやら職場の水道で注いで帰った水やらを駆使して生活していたのである。そんな啓充のアパートで聞き慣れない──聞くだけでやんごとない女なのだろうと感じさせる声音が聞こえてしまったものなら、軽いパニックのような状態になっても不思議ではない。
無論、啓充も軽いパニックに陥っていた。
何を始めたらいい?
何から手を付けたらいい?
啓充は、これまで立ちはだかる困難は先送りにし続ける人生を送っていた。先送りにしていて問題のないものは啓充にとって何ら支障にならなかったし、先送りにしてはならないことなら周りからの働きかけが必ずあった──“やらざるをえない”状況に追い込んでもらえたのだ。
ところが、度重なる家賃の催促や借金の取り立てから逃げるためにそれまでの生活を捨てて今のアパートに越してきた途端、そういったものが何もなくなってしまったのである。出勤時間などの縛りはあるものの、外出して誰かに見つかる危険を避けるために出勤日を極度に減らしているため、外圧というものが極端に減った生活をしているのである。
もしや、隠れ回っているストレスが極まって幻聴が聞こえるようになったか? 自身の体調すら疑ったが、正直、今病むのなら逃げる前の時点でとっくに廃人状態になっていてもおかしくない。その頃に比べれば啓充の精神状態はかなりよくなっている──今さら幻聴なんて。
一笑に付そうとした啓充の前に、新たな問題が立ちはだかる──幻聴でないなら、この声は何なんだ?
『佐々木啓充。始めましょう、始めるのです』
声は数分に一度くらいのペースで聞こえてくる。このアパートでなくとも近所の誰かが発している声なのだと片付けようとしたら、とうとう名指しされてしまった。
始めましょうと言われても、何を?
心のなかで問うてみるが、答えはない。清涼感漂う、聞いているだけで声の主が金髪碧眼の、ゆとりのある白いローブに身を包んだ包容力溢れる20歳代半ばくらいの女──前に近所の小学生が持ち歩いていたファンタジー小説に出てくる女神みたいな女なのだろうと思わせる声は、その声色に反してそこまで親切ではなかったらしい。
まるで目の前にいるかのように具体的にその姿をイメージさせる声に、そういえば最近
「何を始めろってんだよ?」
思えば、いくらでも機会はあったのだ。
学生時代、規制のゆるいホビーショップへと向かおうと急いでいた帰り道に、少し仲のよかった同級生の女子から呼び止められた日。
入学したばかりの大学で、まだ同級生同士のグループ等も定まっていなかった頃に新入生歓迎コンパが催されるという話を耳にしたとき。
就職前に働いていた個人商店で、いっそのことここに腰を据えないかと老店主に誘われた日。
心身を病んだことでブラック企業を退職し、生活苦に喘いでいた頃に起業したから会社に来ないかと旧友に誘われたとき。
何かを始められそうなきっかけは、いくつもあったように思う。動き出すために払うコストに重さを感じてしまったために見送り、後から何度となく当時した選択の是非を問い直してしまうような出来事が、いくつも。
ホビーショップに行きたいために話を聞き流してしまった同級生とは、彼女に恋人ができたことで疎遠になった。
歓迎コンパを見送った後の大学は、何故だか疎外感に苛まれて息苦しかった。
あの日誘われた個人商店は、店主の逝去からしばらくして駐車場になった。
旧友には誘われてから数年後に返事をしたが、もう啓充が入れそうな枠は埋まりきってしまった。
きっかけというものはこちらの心の準備など待たずに訪れて、準備している間に通り過ぎていってしまうものらしい。躊躇や逡巡が罪であるとでもいうように、世界はいとも容易く啓充を置き去りにして進んでいってしまう。
もしかしたら。
ひょっとしたら、啓充にとってこれが最後の“きっかけ”なのではないか?
この現状に満足しているわけではない、何も心配することなく日常生活を送れるような好転を期待していないといえば嘘になる。
過去の選択は変えられないとしても、もしもこの声の誘いに乗って新しい何かを始めてみせれば、何かが変わるのではないか? 何がどう変わるにしても今はわりとドン底の状況、啓充にとってはこれ以上迷う理由も考える理由も見当たらない。
よし、まずは飯を食ってからにしよう。
考え続けていたらいつの間にか昼間になっていたので、近所のディスカウントストアで買った煎餅を食べる。ある程度腹が膨れたら、先程までの緊張が祟ったのか急激に眠気に襲われた。
未だに聞こえてくる声の誘いに乗るか否か、その辺りを決めることができたので安心したのもあるかもな──呑気に笑いながら、啓充は数十分というつもりで仮眠に入った。
目が覚めたのは夕方。
アパートに入るのは宵闇が斜陽に手を掛けようという風情の仄明かりだけ。ひと眠りしたら頭もスッキリしてきて、なんだか体調もよくなったように思う。
よし、始めてやろうじゃないか!
「わかった、始めようぜ!」
そう答えたときになって、気付いた。
さんざん聞こえてきていた声がまったく聞こえないのである。何かを始めよと囁いていた声は、もうどこからもしないのである。
「ほら、始めるぞ! なに始めればいいんだ!?」
声を張り上げても、帰ってくるのは夕焼けチャイムのみ。近所の行方不明者が発見されたと伝える防災無線がぼんやりと響き、その後はただ、子どもたちのじゃれ合う声が聞こえてくるのみだった。
「……あ、」
宵闇に飲まれる前。
最後の抵抗とばかりに強く輝いた残照のなかで、啓充は悟った。
またひとつ、機会が終わったのだ。
まだスタートラインにも立たないうちに。
女神に後ろ髪はないとはよく言うが、どうやら啓充に囁きかけてきた声の主も例外ではなかったらしい。
カーテンを開け、夜へと移り行く住宅街をぼんやり眺める。街灯が煌々と輝き、家々に灯る明かりは誰かを待つように夜景を彩り始める。
また、1日が過ぎていく。
啓充は見慣れた天井を仰ぎ、古めかしい木目が見えなくなる前に、目を
はじまりのとき 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
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