朝の国-6 涙のミートパイ
子猫が大男の手元で丸くなっている。
その背中を人差し指でやさしくなでながら大男が言った。
「少年よ、この子の名前を考えてくれんか。ワシはそんなこと考えたことがないから、ようわからん」
「え、ボクがですか?」
「ほうじゃ。頼む。なんかええ名前をつけてやってくれ」
ええっ?子猫の名前?
突然の頼まれ事に戸惑った。
大男が大事そうに抱えている子猫を見る。
子猫は安心しきった寝顔を見せてスヤスヤと眠っている。
ゴミ捨て場に捨てられていたのを大男に見つけてもらって、運がいい子かもしれない。
幸せに育って欲しいなと思った。
「うーんと、ハッピーってどうですか?」
とっさにその言葉が浮かんだ。ベタ過ぎるかなと思ったけど、まんざら悪くもないと思った。
「なんじゃと?」
「ハッピーです」
「ハピ?」
え?違う違う。ハッ、ピー。伸ばします。
ハッピーです。
「ハピ、ハピか。ほおほお、ええのお。ハピ。ほお、ええ響きじゃ」
ハピ?縮めちゃってる。
でも、なんだかそれも可愛いな。
「ハピ、どういう意味じゃ?」
「幸せ、です」
「なに?少年の国の言葉で幸せという意味じゃと?ますますええじゃないか。ヨシ、決めた。お前は今日からハピじゃ。ええ名前をつけてもろうたの。幸せになるんじゃぞ」
子猫は頭を指先でなでられて、目をつぶったまま大きなあくびをした。
「少年、お前と話せて良かったわい。お前と話せたこの時間も幸せな時間だったわい」
大男はそう言ってフライパンのような大きな手でボクの小さな肩を叩いた。
「痛ってー」
「ほう、すまんすまん。ボーッフォフォフォフォー」
列車が朝の13番駅のホームに入っていった。
「車掌さんよ、こっちこっち。ワシのワカンナは燃やしてしもうたかいの?」
大男が声を上げた。
「いえ、まだこちらにありますよ」
歩み寄ってきたガマガエルが手帳に手を置いた。
「ほうか。なら、手間だがワシのワカンナを訂正しといてくれんか。
夢を捨てた男を消して、〝夢を再び追い始めた男〟と書き直しといてくれ。
なんかこの少年と話しておったら、そう思うてきたわ」
「はい、承知しました。夢を再び追い始めた男、素晴らしいではありませんか。正直に申しますと、先にお聞きしたワカンナならあまり燃えませんので手元に残しておりました。これならよーく燃えることでしょう」
「ほうか、ちょっと照れるがの。今日の仕事をやっつけたら、昼の国のワシの村に帰ってみようと思うとる。いつ以来かのお。村は久しぶりじゃ」
「それは、それは」
「もう馬には乗れんが、馬と関わる仕事が何かあるように思うんじゃ」
ガマガエルは手元の手帳にペンを走らせながら、何度も大きく頷いた。
「おい、少年。ワシは一ツ目村のアンドレじゃ。近くまで来ることがあったら寄っとくれ。ま、あんな山奥まで来ることなんぞ、人間にはできんじゃろうがのお。ボッフォフォフォフォ」
大男は高笑いをしながら列車から降りていった。
ガマガエルがボクの方にやって来た。
「そろそろワカンナをお決めになりましたか」
「いろんな人の話を聞いて考えてます」
「うーん、人の話を聞くのは良いことですねえ」
「大王さまって、どんな方ですか?」
大男の話を聞いて、その大王さまってどんな人物なのか気になっていた。
「大王さまのことですか?お聞きになりたいと。
ほほお、そうですか、では少し長くなりますがお話しましょう」
ガマガエルがそう言って話し出した。
「我らがタイリクの大王さまは、オオザリガニでございます。
わたくしどもが伝え聞いている話によりますと、元々は陸地の小さな池でお生まれになりました。ところが、ある大雨の日に海へと流されてしまい、広い海でたったお一人で相当ご苦労されたようです。
しかしその誠実で責任感の強いお人柄は、次第に周囲の者の厚い信頼を得るようになられました。
若くして全エビ族のリーダーとなられてからは様々な敵と戦い、七つの海を平和へと導かれた後、再びタイリクへと戻って来られました。
我々のような下々の者にもお目をお配りになり、勇敢で聡明で、そして温情のお厚い、それはそれは素晴らしいお方でございます。
名をアレクサンドルさまと申します。
今ではウチワエビ族王女のエリザベスさまをお妃に迎えられ、仲睦まじくお二人でタイリクの平和を守っておられます。
幼い頃からいつかタイリクを平和に導くとの大志を抱き、相当ご苦労されたからでしょう。我々にも自分がどういう者になりたいか、その考えをしっかりと持ち、日々生きていくことを強く望んでおられます。
そのためにこのタイリク横断列車の運行を始められました。
この列車の動力源はお乗りになる方々の強い意志や熱い想いです。
自分は何者か、自分はどうなりたいか、お一人お一人の心がこの列車を走らせています。
ですので、そのことを真剣に考えていない者には厳しい一面がおありです。それもこれも皆のことを深く案じられているからなんですがねえ」
ガマガエルは遠くを見つめるような顔をしたが、我に返ったようにボクを見た。
「ですから、あなた様もしっかりお決めになってくださいましね。間もなく昼の国に入りますよ」
そう言い残して車両を出ていった。
そうだったのか、大王さまがザリガニだったとは……
ガンガンと窓を叩く音に振り向くと、フードを目深に被った大男がホームに立っていた。
太い人差し指をクイクイと上に動かし、窓を開けろと言っている。
ボクは立ち上がって固い窓を両手で持ち上げた。
木の窓枠がキュッキュと音を立てた。
「食え」
フードを指先で持ち上げて大きな瞳を覗かせた大男が、片方の手で紙包みを突き出した。
包みを受け取り開けてみると、ミートパイが顔を出し、ほのかな湯気とおいしそうな匂いが立ちのぼった。
それ以上何も言わず、大男は金歯を見せてニカッと笑うと、一度もこちらを振り返ることなく、のっしのっしと大股で駅の改札を出ていった。
その大きな背中のリュックのポケットからは、ハピがちょこんと顔を出していた。
一口かじったミートパイ。
やさしい味が口の中に広がった。
予期せぬ心遣いに鼻の奥がキュンとなり、熱いものがボクの手元にぽろりと落ちた。
次回、列車は昼の国へ
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