朝の国-5 幸せの測り方
列車の揺れにびくともせず、山のように黙り込んでいた大男が重い口を開いた。
コロシアムの観客席を見てての、ワシはある時気づいてしもうたんじゃよ。
観衆たちはワシの力自慢の凄さを観に来てると思うてた。ワシはそれに有頂天になっちょった。
それがの、それがそうじゃなかったんじゃ。そうじゃ、なかった……
確かにワシの力や技に驚いて、興奮して、喝采を上げてくれとる者もようけおったわ。
しかしの、ある連中らはの、違うんじゃ。そうじゃなかったんじゃ。
ヤツらが見に来とったんはな……ヤツらが見に来とったんは、ワシの、ワシのこの顔じゃ。この……この珍しいワシの顔を見に来とったんじゃよ。
ワシを指さして笑うとる者がおった。
眉をひそめとる者がおった。
何やら囁きあって蔑むような顔をする者たちもおった。
大男は苦々しそうな表情を浮かべ、ギュッと握りしめた右の拳で膝を叩いた。
自分を落ち着かせようと思ったのか、左脇に抱えている子猫にその手をやると、母猫の夢でも見ているのか、子猫は大男の太い人差し指にしがみついた。
そのまま眠りを続ける子猫を見て、大男の顔が少しだけ柔んだ。
ワシは一ツ目の一族に生まれて、一度もイヤなどと思うたことはない。良かったと思うとる。自分のことを何も恥じてなどおらん。
しかしのお、それを金に換えとるんかと思うたらの。自分が許せんような気持ちになってしもうたんじゃ。
金さえもらえればええんかい、金の為ならなんでもするんかいとのお。
それでの、お抱え力士を辞めることにしたんじゃ。
三ツ目と青鬼は、ええ金になるんじゃから続ければええじゃないかと言うて止めたんじゃがの。ワシはもうイヤになってしもうた。
奴らはそれでええんなら続ければええ。
しかし、ワシはイヤじゃ。
大王さまはの、こんなワシの話を最後まで聞いてくださった。ワシの何とも言えん、どう説明したらいいかわからんこの気持ちをわかってくださり、一緒に涙まで流してくださった。
力士を辞めてもずっと宮殿に住んでよいとまで言うてくれたがの。それはできん。丁寧にお断りさせてもろうた。
ほんにあのお方は素晴らしいお方じゃ。このタイリク総ての者に分け隔てなく接せられ、一人ひとりの心に寄り添ってくださるほんに尊いお方じゃ。あんなお方は他にはおらん。
ワシは今も毎日、宮殿に向かって感謝の手を合わせておるんじゃ。
想像もしていなかった話に、ボクの頬を涙が伝っていた。
大男に何か言葉をかけたかったが、何を言えばいいかがわからず、無言で耳を傾けることしかできなかった。
そのことがまた、自分を気の利かないつまらない存在だと感じさせた。
そんなボクに大男が話を続けた。
それで街に戻ったわい。街に戻って仕事を探しておった。
そしたらの、またあることに気づいた。街を歩いとるワシのこの顔を見て、あのコロシアムの連中と同じような反応をする者が、少のうないことに驚いた。
おかしなもんよの。前は全く気にならんかったのにのお。
ワシが気づいてなかっただけかも知らんがなあ。どうなんじゃろうの。フォッフォ……
それで他人の目が恐ろしゅうなってしもうた。
何が一番辛いと言うて、小さい子供がワシを見るなり大声上げて泣きよるんよ。あれは辛い。
そっからじゃ、街ではなるべく顔を隠すようになったんわ。
それでの、昼間は顔が見られやすいし人も多い。だから人が少ない夜の国か朝の国で、なるべく人と顔を合わさん仕事を探したんじゃ。それが今の片づけ屋じゃ。
ほんでもこの仕事もやってみればの、やりがいがあるんぞ。
きつくて、危険で、汚れるから誰もやりたがらんが、街での暮らしには誰かがやらんとならん仕事じゃ。それをワシはやっとる。
誰かの役に立っとるという実感があるんじゃ。無くてはならん仕事をやっちょるという誇りを持てるんじゃ。
きれいに片づけた後は気持ちええんぞ。
たまーにじゃが、そんなワシに礼を言うてくれる者もおる。ありがたいのう。
金って何じゃろうのお。
仕事って何じゃろうのお。
少しの間、何も言えなかった。
大男がこれまで歩んできた時間は、ボクの理解や想像をはるかに越え過ぎていて、頭の中が真っ白だった。
特に大男が最後に言った、お金とは何か、仕事とは何かという問いへの答えは、今のボクには見当もつかなかった。
「いま幸せですか」
突拍子もなく聞いてしまった。
なんでそんな質問をしたか、自分でも驚いたが、口をついて出てしまった。
残酷な質問だったかなと、言ってから後悔した。
「幸せ?ほう、どうかのお」
そう言って考える素振りを見せてから、言葉を続けた。
「少年の国には幸せを測る秤みたいなもんはあるんか」
「いえ、そんなものはないです」
「ほうじゃろうのお。幸せかどうかなんて、どうやったらわかるんかいのお。
少年はどうなんじゃ。いま幸せなんか」
え、質問が返ってくるとは思わなかった。
どうなんだろう。
幸せ、か……
考えたこともない。
得意なものがあるタカスギやマエダを羨ましいと思う。あいつらはきっと幸せだ。ボクには得意なものがない。思いつかない。彼女ができたヨウタのことも羨ましい。ヨウタもきっと今幸せに違いない。
そんなことを考えている自分がもどかしいし、自分のことをイケてないつまらない奴だなあと思ってしまう。
「どういうのが、幸せですか?」
どう答えていいかわからず聞き返した。
「ほう、どういうもんじゃろうのお」
大男もわからないようで、考えこむように両腕を組んだ。
「まあ、自分がそう思えればええんじゃないか」
しばらく間があって大男がそう言った。
「自分が思えれば?」
「ほうじゃ。自分が幸せと思えば幸せじゃ。幸せかどうかは他人が決めるもんじゃないわい。自分がどう思うかじゃろ」
きっぱりそう言った。
幸せかどうかは他人が決めるものではない?
じゃあ、幸せって自分が決めるってこと?
「ふんふん。そしたら、ワシはいま充分幸せじゃ。力士の時より稼ぎは落ちたが、誰かの役に立っとるという実感が持てちょる。そのことにやりがいと誇りも感じちょる。競争競争に明け暮れてギスギスしとった時と違うて、こんな小さな命を愛しく感じる時間も持てちょるわい」
大男は手元の子猫にまた手をやり、感慨深げにこう続けた。
「これを幸せというんじゃろ」
そう言って満面の笑みをボクに向けた。
「ワシは充分に幸せじゃ。少年、お前としゃべっておって今それがわかったわい。
なんか愉快になってきたの。ボッフォフォフォフォー」
訳がわからなかったが、大笑いする大男を見ていてボクも嬉しい気持ちになり、胸の辺りが温かくなった。
幸せかどうかは、自分が決める?
って、本当にそうなの?
そうなのかな。
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