10 田島くんは将棋部員
あたしとキノンは、ハノヴェさまの前に出ることになった。
ハノヴェさまは穏やかなお顔をされておられた。まさにこの方こそ素晴らしい未来の貴族。その笑みを浮かべた御尊顔は天使のよう。
「大義であった」
ハノヴェさまは笑顔でそう仰られた。ははあっ。水戸黄門の印籠を見せられた悪代官のごとく平伏する。
「よいよい、わたしなどにひざまずかずともよい。別に褒美をとらせるとかそういうわけでもない。ただ、昨晩は馬小屋で寝たと聞いた」
「いえ! ハノヴェさまをお守りする任に就けるのであれば、馬小屋だろうが豚小屋だろうが鶏小屋だろうが問題ありません!」
「いや鶏小屋は小さくて人間の入るところではないよ」
その通りなのであった。
ハノヴェさまは笑顔で続けられる。
「そなたらはわたしと同い年であると聞いた」
キノンも17歳なのか。もっといっているかと思っていた。
「宿屋に宿泊する際に、話し相手になってほしいのだ。退屈で死にそうでな」
隣にいるキノンがどんな顔かは分からない。ただ嬉しい顔をしているのは間違いなかろう。そう思っていたらキノンが口を開いた。
「あの。ハノヴェさまはどのような話をなさりたいのですか?」
キノンは冷静であった。ハノヴェさまは困った顔をした。
「どのような……と言われると困るのだが、なにか馬鹿馬鹿しい話だ。わたしには友達がいたことがない、だからいろいろ話したい。そして17歳の男子がふつうならどういうことを話しているのかを知りたいのだ」
あたし女なんですけどね。
まあそれが知られるよりは男だと思っていてもらったほうがお得だろう。何がお得なのかは分からないが。
「……父に命じられたのだ。王の娘に惚れられてこい、と。そして未来の妻とせよ、と」
えっ。
お、女同士で結婚するんですか!?
つまりあたしとキノンに「百合に挟まる男」になれと!?
田島くんに教えてもらったのだが、女の子同士の恋愛の創作物を「百合」と称し、それに男が挟まろうとすると大バッシングを受けるらしい。田島くんに教えてもらった無駄知識が役に立ってしまった。いや役に立ったのか?
「ハノヴェさまはそれでいいのですか?」
「父に命じられたのだから仕方がない。結婚したのちは、素直に事情を明かして、ほかのしかるべき男性に姫君を抱かせろとまで言われた」
「そんなの、ハノヴェさまが可哀想です」
「……ジュン殿は優しいな。しかし貴族にはどんな悲しい目に遭っても耐えねばならないときがあるのだ」
つまりハノヴェさまは永遠にひとりぼっちということではないか。
そんなことが許されていいのか。心がメラメラポッポしてきた。
「ハノヴェさま、ハノヴェさまだって幸せになっていいはずなんです。人間は喜んで生きるために生まれてきたってひふみんが言ってました」
「……ひふみん……?」
「もとの世界の、えーと……勝負ごとの神様です」
ウソは言っていないはずだ。いやひふみんは神なのか? 隣の席の田島くんが神と言っていたから神なのだろう。田島くんは将棋部員なのであった。
「勝負ごとの神様が、人間は喜んで生きるために生まれてきたって言っていたのか。それならばそうなのかもしれないな……」
ハノヴェさまは遠い目をなされた。
そこからの旅は一気に楽しくなった。ハノヴェさまと一緒の宿屋に泊まれるし、ハノヴェさまと食事をしながらおしゃべりができる。
いろいろなくだらないことを話した。現実世界の洗濯機というものを誰も信じてくれないとか、熱湯3分で食べられる麺料理というものを誰も信じてくれないとか。
そういう話をすると、ハノヴェさまは「それは愉快だ」と笑ってくださった。
キノンはスラムのご近所さんの話をしていた。ハノヴェさまはふむふむと聴いていた。さすが未来の大貴族だ。
そうこうするうちに王都にたどり着いた。まず思ったのは「空気が悪いうえに水がまずい」であった。
なにやら試作段階の蒸気機関車が煙を上げており、街の空気はどうにも汚い。人いきれというのか、人間の匂いが立ち込めている。田島くんが言うには昔コミケの会場に雲ができたことがあるらしいのだが、それもきっとこんな感じだったに違いない。
宿屋に入って陶器のジャグに入れられた水をコップについで飲んでみたら、やたら鉄臭くてびっくりした。そういう水しかないらしい。
夕飯は革靴よりはナンボかマシな肉と、薄切りのチーズ、それから野菜とパンだった。ハノヴェさまの暮らすお屋敷より上等なのはここが王都だからだろうか。
ハノヴェさまの身支度が始まった。もうハノヴェさまが女であることは伯爵領では常識だが、遠い王都では誰も知らないことらしく、密室でメイドさんがハノヴェさまに服を着せた。
ほどよい程度のアクセサリーと、豪華な服をまとい、いかにも貴族、という服装になった。我々騎士団も共に王の城に登るのだ。ドキドキする。
まああたしとキノンは最後尾だ。実際に王様を見ても遠くにしか見られないだろうと思っていた。謁見の間がどれだけ大きいか知らないが、この数の騎士団が入るのは難しかろうとたかを括っていたのである。
そしてその考えは1時間後、見事に木っ端微塵となる。
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