第39話 新たなループ

 僕はむせび泣きながら目を覚ました。

 あれから何度見たか分からないほど繰り返し見る夢だ。

 夢というよりは、現実のあの日だ。


 夢だったらどれほど良かっただろう。

 母さんにほんの少しでも優しい言葉をかけていたら、僕は僕を許すことができたかもしれない。でも僕は母さんの最後の日に、最低のことしか言わなかった。


 一時間ほど自習していたところで、ようやく父さんから塾に連絡があって僕は母さんが事故に遭ったことを知った。


 塾の先生から病院に行くように言われた時も、僕は少し怪我をしたぐらいだと思っていて、受験で一番大変な時に面倒なことを起こしてくれたといらいらしていた。


 明日からの食事とか僕の世話は誰がするんだと、そんなことばかり気にしていた。

 受験の正念場しょうねんばで、本当にの悪い人だと。

 母さんは僕の輝かしい未来の足を引っ張る貧乏神なんじゃないかとすら思っていた。

 母さんの怪我の心配より、そんなことしか考えられない人間だった。


 だから病院で、目を閉じたまま動かない母さんを見て頭が真っ白になった。

 あまりに自分勝手な僕を反省させるために、母さんが悪い冗談を仕掛けたのだと思った。


 そういうくだらない冗談はいいから、早く目を覚ましてネタばらししてくれ。

 僕は忙しいんだ。母さんの冗談に付き合っているほど暇じゃないんだ。


 真っ白になった頭の中でそうとなえるのに、母さんは全然目を覚まさない。

 いつまで待ってもネタばらしをしてくれない。


 そうして僕はこの五年間、一歩も動けないまま記憶の中でひたすらあの日を繰り返していた。

 少しもせることなく、鮮明な記憶を保ったままループし続けていた。


 今度こそ違う言葉を言ってくれと思うのに、僕は相変わらず母さんに悪態をついて最低な言葉だけを投げつける。

 そしてそのたび、こいつだけは許してはならないと再確認するのだ。

 母さんの無念を思い知らせてやると、ずっとずっと制裁の日を待ち望んでいた。


「ようやく天罰を下す日がきたよ、母さん。五年かけてようやく壊れたようだ。もうこいつは終わりだ。学校に行けなくなって、部屋からも出られなくなって、みじめにあわれに社会から消えていく。これで許してくれる? 許してくれるよね、母さん」


 けれどその時、僕の五感は異変に気付いた。


 匂いだ。


 甘い匂いがする。


 階下のキッチンでガタガタと物音がしている。

 どうやら、羅奈が学校から帰ってきていたようだ。

 もうそんな時間になっていたのか。


 そして思い出した。

 羅奈に言わなければいけないことがあった。

 僕が壊れるのは羅奈のせいじゃないと。

 本当は五年前にすでに壊れていたのが、はっきりと表面化するのに五年かかっただけだ。

 羅奈にはまったく関係ないところで、僕はすでに詰んでいた。


 そのことだけは言っておかなければならない。

 そうでないと、万が一にも自分のせいだと一生負い目を感じることになるかもしれない。


 僕は鉛を背負ったような重い体を起こしてベッドから立ち上がった。

 おぼつかない足取りで部屋を出て、階段を下りる。


 キッチンから甘い匂いがただよっている。

 すでに外は暗くなっていて、僕はずいぶん眠っていたようだ。


 僕がふらふらとリビングの扉を開くと、羅奈が「きゃっ!」と悲鳴を上げた。


「び、びっくりした。蒼佑、いつの間に帰ってたの?」


 羅奈は僕が今日学校を休んでいたことを知らないらしい。


「今日はずいぶん遅いと思ったら、部屋にいたのね。ただいまぐらい言ってよね、もう」


「そんなことより羅奈……」


 僕は言いかけてはっと目を見開いた。


「何作ってるの?」


 僕は言いながら羅奈の手元を凝視していた。


「あーもう、見つかっちゃったわね。蒼佑がいない間に仕上げようと思ったのに」


 羅奈は丸いスポンジ生地に生クリームを塗り付けていた。


「スポンジケーキを焼いたのよ。生クリームをデコレーションしてフルーツたっぷりケーキを作るから楽しみにしてて」


「なんでケーキなんか……」


 僕は呆然とたずねていた。


「蒼佑ったら、今日が何の日か忘れてるの?」

「今日……」


 今日は何の日だっただろうか。

 僕が終わる日じゃないのか。


「もう~、自分の誕生日を忘れちゃったの? 最近ぼんやりし過ぎよ。ママと啓介さんも今日は早めに帰るからお誕生会をしようって。蒼佑の元気がないって、さすがの二人も心配してるのよ。今日は御馳走を食べて、にぎやかにお祝いして嫌なこと全部忘れちゃえばいいわ」


 そうだった。

 今日は僕の誕生日だった。

 よりにもよって、終焉を迎える日が誕生日とは。


「もうちょっと待っててね。御馳走作るから。できるまで先にお風呂に入ってきたら?」


 羅奈は妙に明るい。

 様子のおかしい僕を何とかこの世界につなぎ止めようと、他愛たあいもないことをしゃべり続けている。


「……いいよ……」


「え? なに?」


 ぽそりと呟く僕に羅奈が聞き返した。


「ケーキなんか……作らなくていい……」


「え? なんで? お誕生日といえばケーキでしょ? あ、さては私の作るケーキがまずいと思っているんでしょう。生クリームは奮発して最高級品のものを買ってきたのよ。甘さ控えめにしたから甘い物が好きじゃない蒼佑だってきっと気に入るわ。だから……」


「いらないって言ってる」


 羅奈はかたくなに言う僕に一瞬ひるんだものの、さらに明るい声で告げる。


「もう~、蒼佑ってそういうとこ頑固よね。じゃあろうそくを吹き消すだけでいいわ。ケーキは食べなくてもいいから……」


「いらないって言ってるだろっ‼」


 僕はろうそくという言葉に反応するように声を荒げた。


「蒼佑……」


 羅奈は僕の突然の剣幕に唖然としている。

 だがまだ屈しない。まだ見捨ててくれない。


「ちょっと……なに怒ってるの? 私は蒼佑の誕生日を祝ってあげようと思って、昨日から料理の下ごしらえをして今日だって急いで学校から帰ってきて……」


「そういうのがいらないって言ってるんだ! 僕に構うな‼」


「‼」


 羅奈は僕の怒鳴り声にびくりとして、驚いたように黙り込んだ。


 違う。こんなことを言いにきたんじゃない。


 羅奈を傷つけておびえさせるためにきたんじゃないんだ。

 なんで僕は大切な人にこんな言い方しかできないんだ。


「僕に……構わなくていい。頼むから僕のために何もしないでくれ。僕なんかのために、何もしなくていい。お願いだから、もう放っておいてくれ!」


 僕はそれだけ言い切って、逃げるように階段を駆け上がり部屋に戻った。



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