第38話 最後の晩餐う

「ほら、見て見て、蒼佑。クリスマスケーキよ。母さんが作ったの」


 母さんはシチューとチキンを頬張る僕の前に、大きな丸いケーキを持ってきた。

 生クリームでデコレーションして、イチゴやフルーツがたっぷりのったクリスマスケーキだ。

 ケーキ屋で売っているものと遜色ない出来栄えだった。


 だが僕がそのケーキを褒めることはなかった。


「ケーキはいいよ。帰ってから食べるから」


 迷惑そうな顔をして、そう言っただけだ。


「えー、食べようよ。もうすぐ父さんも帰るって連絡あったから、ろうそく立ててみんなでふうってしようよ。ね? お願い!」


「はあ? ろうそく立てるのって誕生日だろ? クリスマスケーキはしなくていいよ」


「でも、ほら、この間の蒼佑の誕生日はできなかったから……」


 先月の僕の誕生日のケーキは、母さんが運ぶ時にひっくり返してしまって、僕が「もういいよ」と怒って塾に行ってしまったのだった。


 母さんは肝心な時によく失敗する。

 おっちょこちょいなのだ。

 母さんがドジをするたびに僕はいらいらと怒っていた。


「ねえ。三人でふうってろうそくを消そうよ。それだけでいいから。それだけしたら塾に行っていいから。お願い。ね?」


 僕はやれやれとため息をついた。

 珍しくしつこい母さんに僕は根負けした。


「分かったよ。じゃあろうそくを吹き消したら塾に行くからな」


「うん。えっと、ろうそく、ろうそくっと……」


 母さんは嬉しそうにろうそくを取りに行った。

 そして泣きそうな顔で戻ってきた。


「ろうそくを買い忘れていたわ。誕生日の分が残ってると思ったけど、あの時ケーキと一緒に折れちゃったから捨てたんだったわ。どうしよう……」


「じゃあ、もういいじゃん。来年すればいいよ」


 僕はちょうど良かったとカバンを肩にかけて塾に戻ろうとした。


「ちょっと待って! すぐ買ってくるから。ほら、すぐ近くにケーキ屋さんがあるでしょ? あそこに売ってるはずだから買ってくるわ」


「もういいってば……」


 僕は母さんの執念しゅうねんに頭を抱えていた。


「待って! 待ってったら。買って帰ってきたら、ちょうどお父さんも帰ってくる頃よ。それでろうそくを吹き消そうよ。ね? 自転車を飛ばして五分で戻ってくるから!」


「もう……なんなんだよ。駄々っ子かよ。はああ~」


 僕は優しさの欠片かけらもない言葉ばかりを返していた。


「すぐ戻るから。五分だけだから。父さんが帰ってきたらお風呂に入らないで待っててって言っておいて。大急ぎで買ってくるから」


「五分だけだよ。五分過ぎたらもう塾に行くからな! ……ったく」


「うん。分かった。待っててね!」


 それが母さんと交わした最後の言葉だった。


 こんなひどい息子がいるだろうか。

 心を込めて作ってくれた料理にもケーキにも感謝するどころか文句ばかり言って、おまけにろうそくを吹き消すたった五分を惜しんで嫌みばかり言った。


 五分ぐらい塾に戻るのが遅れたところで、劇的に勉強がはかどるわけでもないのに。

 僕は母さんのためにたった五分を使うことすら惜しんだのだ。


 今となっては、二度と過ごすことのできないあの大切な時間を。


「僕がろうそくを買ってくるよ」と、なぜ言わなかったのだろう。

「すごい御馳走だね」「美味しそうなケーキだね」「僕のためにありがとう」とどうして言ってあげられなかったのだろう。


 いつでも言えると思っていた言葉の数々は、あの瞬間しか言えないものだった。


 そんなことに少しも気付くことができなかった。


 母さんはろうそくを買った帰り道、慌てて横切ろうとした道路で車に轢かれて死んだ。

 手にはろうそくの束がしっかりと握られていたらしい。


 僕が五分だけだなんて急がせなければ、母さんはもっと用心して道を渡っただろう。

 僕が母さんを殺したのだ。


 そして僕はもっと最低なことをした。


 いつまで経っても帰って来ない母さんを十五分待った。


「……ったく。何が五分だよ。全然帰って来ないじゃないか」


 僕はいらいらとつぶやいた。

 どうせケーキ屋で買えなかったとかで駅前まで行ったのだろうと思っていた。


「父さんも全然帰って来ないし。なんだよ、もう。こっちは受験生なんだよ」


 父さんは家に帰りつく手前で、事故の現場に遭遇そうぐうしていたらしい。そのまま救急車に乗り込んで、生死を彷徨さまよう母さんに声をかけていて僕に連絡できなかったそうだ。


 僕は二十分待って、立ち上がった。


「五分過ぎたら塾に行くって言ったからな。二十分も待ってやったんだ。もういいだろ。五分で戻って来ない母さんが悪いんだ」


 捨てゼリフのように言うと、母さんのケーキを置き去りにして僕は塾に戻った。

 やけに救急車のサイレンがうるさい日だと、そんなことを思いながら。


 塾に行くと、みんなはとっくに戻って自習を始めていた。


「遅かったな、南」


 同じクラスのやつが声をかけてきた。


「うん。なんか母さんがクリスマス会をやるとかケーキのろうそくをみんなで消すとか言い出してさ。ほんと、うちの母さんおかしいんだよ」


「はは。いいじゃん。俺なんかケーキはいいから、さっさと塾に行って勉強してきなさいって追い出されたよ」


「普通はそうだろ? うちの母さんがおかしいんだ。あーあ、お前んちの母さんが良かったよ。勉強だって教えてくれるんだろ? うちの母さんなんか受験問題見たって全然分からないんだよ。こっちが教えてあげるぐらいだ。僕も頭のいい母さんが良かったな」


 やめろ。

 やめてくれ。

 もうそれ以上言うな。


「えー、そうかな? 南の母さんっていっつもにこにこしてていいじゃん。料理も上手なんだろ? この間手作りクッキーくれただろ? あれ、美味かったなあ」


「暇があればケーキとかクッキーばっかり作ってるんだよ。母親はいいよな、暇そうで。こっちは毎日勉強で大変だってのに、へらへら笑ってさ。なにが蒼ちゃん、お願い! だよ」


 頼むから、もうやめてくれ。

 何もしゃべるな! 二度としゃべるな!


「たぶん帰ったら、なんで戻るまで待っててくれなかったのよ、ってねるんだよ。もう勘弁して欲しいよ。いちいち構ってくるのも鬱陶うっとうしいし。受験が終わるまでどっか行っててくれないかな」


 お願いだからもうやめてくれ。

 友達に過保護だと思われたくなくて、軽い気持ちで言っただけなんだ。

 本心じゃなかったんだ。

 

 人は死ぬと、見えないたましいとなってえんのあった人のところにお別れを言いにくるのだと聞いたことがある。


 この時にはすでに息を引き取っていただろう母さんは、僕のところに来ていたのだろうか。

 そして僕の言葉を聞いたのだろうか。


 誰か、僕を殴り倒してもうしゃべらせないでくれ。

 息の根を止めて、この最低なやつの口を永久に閉ざして欲しい。


 でも僕の願いは聞き届けられることなく、いつも最後の言葉を告げる。


「あーあ。親ガチャ外したなあ。なんで母さんのところに生まれたんだろ。大ハズレだよ」


 どうか、こいつを極刑にしてください。

 二度とい上がれない奈落ならくに落としてください。

 思いつく限りの罰を与えて、二度と幸せにならないようにしてください。



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