第35話 無視され続ける兄

 僕が少しずつ杉内さんとの契約交際を進めて数日が過ぎたが、相変わらず羅奈は僕を無視し続けていた。今まではリビングや廊下で顔を合わせることも多かったのに、家の中で全然見かけなくなった。


 朝は僕と顔を合わす前に出かけてしまい、夜は僕が部屋に入ってからコソコソとキッチンで晩ご飯を作って食べているようだ。

 徹底的に避けられている。


 たまにトイレから出たところで顔を合わせても、ぷいっと顔を背けて行ってしまう。

 どうにも居心地が悪くて仕方がない。


 そういえば母さんも、一度だけ分かりやすくねたことがあった。


 あれは確か『親子合唱団』とかいう地域のサークルに一緒に入ろうと言われて断った時だ。


「絶対嫌だ! 何で僕が塾を休んで母さんと歌を歌いに行かなきゃならないんだよ!」


 小学四年生だったと思うが、すでに中学受験の熾烈しれつな戦いが始まっていた。

 そんな時期に合唱のサークルに誘う母さんもどうかと思うが、今思えば塾に入ってどんどん離れていく僕と一緒に何かをしたかったのかもしれない。


「蒼佑のお友達も入るのよ。一緒に入りましょうって約束しちゃったんだもの。月に一回だけよ。月に一回ぐらい塾を休んでもいいじゃない」

「勝手にそんな約束するなよ! 僕は絶対行かないからな!」


 後で聞いたら、その友達とは哲太親子だったらしい。

 哲太の母親は僕の母さんと違って強引な人で、否応なく合唱団に入れられたそうだ。


 結局僕ががんとして行かないと言い張ったために、小四の男子は哲太一人だったらしい。

 しばらく哲太は僕を裏切り者呼ばわりして怒っていた。

 そして母さんも哲太親子との約束を破ってしまったことを申し訳なく思ったのか、珍しく拗ねて、分かりやすく僕に対してつんつんしていた。


 朝晩のご飯も少し手抜きで、いつものように世話を焼いてこない。

 僕は、母さんがいつも構い過ぎると思っていたので、ちょうどいいと放っておいた。


 母さんはまったくこたえない僕に、ますます拗ねてふくれる。

 だが最低限の世話はつんつんしながらもしてくれたので、僕は大して困らなかった。


 しばらくそんな感じで過ごしていたが、結局少しも謝ってこない僕に根負けして、いつの間にか普段の母さんに戻っていた。


 あの時一緒に合唱団に入ってあげていれば、今の後悔は薄れただろうか。

 もっと違う母さんの思い出がたくさんできただろうか。

 あんなに拗ねるぐらいだから、よほど僕と合唱団に入りたかったんだろう。


 もっと怒って僕の世話なんか全部ボイコットしてしまえば良かったんだ。

 そうすれば僕はもっと困って、少しは母さんの気持ちを考えようと思ったかもしれない。


 母さんは優し過ぎたんだ。

 優し過ぎる母さんが悪いんだ。

 だから僕は母さんが死ぬまで、何も分かろうとしてあげられなかった。


 いや……。


 その優しさに甘えて母さんの気持ちを少しもみ取ろうとしなかった僕が悪い。


 僕が全部悪いんだ。


 もうこんな後悔はしたくない。

 だから僕は羅奈に謝ろうと思った。


 

 その日の夕方、風呂上りの僕はリビングから出てきた羅奈と鉢合わせした。

 羅奈は上機嫌に鼻歌を歌っていたのに、僕を見ると慌てて眉間にしわを寄せ、不機嫌な表情を作ってぷいっと顔を背けた。

 怒っているぞというパフォーマンスを必死に保っているように見える。


 そんなところも母さんを思い出す。

 本当は母さんも羅奈も、さほど怒りが持続するタイプではない。

 どちらかというと一晩寝れば忘れてしまうタイプだ。


 だが、それでは僕への抗議が伝わらないから、一生懸命怒っているぞというポーズを作り直して保っている。でも僕に言わせれば見え見えなんだ。


 分かっているからさっさと僕が非を認めて謝ればいい。


 僕は通り過ぎようとした羅奈の腕を掴んだ。

 羅奈はぎょっとした顔で、振り向いて僕を見上げる。


「羅奈、ごめん。僕が悪かった。謝るから許して欲しい」


 僕はすぐに腕を離して羅奈に頭を下げて謝った。


「……」


 羅奈は驚いたように僕を見上げてから尋ねた。


「私が何に怒っているか分かっているの?」


「それは……ケーキの味見係を断って……勝手に彼女を作ったから?」


 改めて答えてみると、そんな理由で全面降伏して謝っている僕がおかしい気がする。

 僕は何も悪くないように思えるが、どうなのだろう。

 だが謝りたいのだから仕方がない。

 僕はきっと羅奈の先に透けて見える、過去の母さんに謝りたいのだ。


 羅奈が許すと言ってくれれば、あの日の母さんにも許された気がする。

 だが羅奈は、大きなため息をついた。


「全然分かってないのね。なぜ蒼佑が彼女を作ったからって私が怒るのよ」


 僕だってそう思った。だけど羅奈は明らかに僕に彼女ができたことを怒っていたじゃないか。


「妃奈子ちゃんが来るのに出掛けてしまったことだって、約束したのは私なんだから、蒼佑に怒る筋合いがないことぐらい分かってるわ」


「じゃあ、何を怒っているんだよ」


「……」


 僕に問われて羅奈は少し考え込んだ。


「私も……何に怒っているのか分からないの」


 なんだそれ。

 怒る理由も分からないのに、ずっと怒りのパフォーマンスを続けていたのか。


「でもなんだか分からないけれど、すごく怒っているの。なんでだろうってずっと考えていたわ。でも今、少し分かったような気がする」


 羅奈は真っ直ぐに僕を見つめた。


「蒼佑。なぜ謝るの? 自分は悪くないって、なぜ私に言い返さないの? 勝手な理由で怒るなよって文句を言えばいいじゃない。なんで理由を確かめようともせずに自分が悪かったと決めつけるの? 弁解して自分を守ってあげようとしないの?」


「そんなこと……」


 正直、羅奈が何に怒っているかなんてどうでもいい。

 何でもいいから僕は僕を糾弾したいのだ。

 そして羅奈に謝りたかった。


「蒼佑は優しいけれど、その優しさは何のため? 誰にも深入りさせないため? 謝っておけば自分の領域に踏み込まれずに済むから? 私を適当にあしらいたいだけなんでしょ?」


「そ、そんなつもりは……」


「彼女のことにしたって、蒼佑が本当に好きで付き合いたいと思っていたのなら別にいいのよ! でも違うでしょ? 何のためだか知らないけど、妃奈子ちゃんを牽制けんせいするために慌てて付き合ったように私には思えるの。違う?」


「そ、それは……」


 ほとんど図星だった。

 返す言葉もなかった。


「ねえ、蒼佑はどうしてもっと自分の気持ちを大事にしないの? 私には蒼佑がわざと自分の心を無視して、幸せになれない道を選ぼうとしているように見えるの」


 見え見えなのは僕の方だった。

 羅奈には、僕の考えていることなどすべてお見通しだった。


「ずっと感じていた違和感がやっと分かったわ。蒼佑は全然今を生きていないのよ。過去に立ち止まったまま、いったいどこを……誰を見ているの?」


 僕は羅奈の言葉に衝撃を受けたまま立ち尽くしていた。



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