第29話 鈍い男
「明日、十時に妃奈子ちゃんが来るからね」
羅奈は風呂上りの短パン姿で、髪にはターバンのようなもこもこタオルを巻いたままリビングにいた僕に告げた。
体育祭の後、僕は哲太を振り切り真っ直ぐ帰宅したのだが、羅奈はA組の有志で打ち上げがあったらしい。さっき帰ってきてすぐに風呂に入った。
父さんと香奈さんは、今日も遅くなるらしい。
「十時? 朝から来るの?」
思った以上に早い来客だ。
昼から図書館に行こうと思っていたが、それなら九時半には家を出ないと白藤さんに会ってしまう。
「うん。二人でケーキを焼こうってことになったの」
「ケーキ?」
今日友達になったばかりの相手と明日は一緒にケーキを焼くのか?
距離の詰め方が尋常ではない。僕などには到底ついていけない順応力だ。
だがそういえば母さんもそんな人だったっけ。
公園でたまたま一緒に遊んだ親子を、翌日には家に招いて自作のケーキをふるまっていた。
母親同士はすっかり仲良くなっていたが、僕はよく知らないやつに自分のおもちゃを独り占めされて嫌な思いをしたこともあった。
母さんはなんだってこんなやつを家に呼んだのだと腹立たしく思ったものだ。
親子が帰ってから僕が文句を言うと、「えー、でも私は仲良くなりたいなあ。ねえ、お母さんのために蒼佑ももう少しだけ仲良くしてみてよ。お願い」などと頼まれ、仕方なく付き合っていた。
だがそんな僕も、ひと月もたてば相手のいいところも少し見えてきたりして、いつの間にか友人と呼べるほどには仲良くなった。
母さんに頼まれなければ、あの友情は芽生えてなかった。
そんな中の一人に哲太もいたのだ。
母さんのおかげで、幼少期の僕は孤独にならずに済んでいた。
そして今もその恩恵にあずかっている。
母さんは、本当は自分ではなく僕のためにケーキを焼いて親子を家に呼んだのだろうと今なら分かる。孤独に遊びたがる僕を人の輪に入れようとしてくれたのだ。
今の僕のあらゆるところに、母さんの温かい
その温かい痕跡によってのみ、僕は生かされている。
その証拠に、僕の人脈は母さんが亡くなってから少しも広がっていない。
僕は母さん無しでは人脈すら築けないダメ人間だった。
昔は誰彼なく友達になりたがる母さんが軽薄で
今となってはもう感謝することもできないのだが……。
「蒼佑はどんなケーキが好き? 簡単なところでバナナと胡桃のパウンドケーキか、チョコチップのカップケーキにしようかって言ってるんだけど、どう思う?」
羅奈はキラキラした目で僕に尋ねた。
「甘い物はあまり好きじゃないから。分かんないよ」
僕は羅奈の質問に、最強につまらない答えを返した。
「えー、そうなの? でも少しは食べるでしょ? 蒼佑に味見してもらおうと思ってたのに」
は? なんで僕が?
明日のわくわくケーキ作りの会に、いつの間にか僕の招待が決定されていたようだ。
「僕は白藤さんが来ている間は出掛けることにしてるから」
僕が答えると、羅奈は大きな目をさらに大きく見開いた。
「え、なんで?」
「なんでって、そっちこそなんで? 僕がいない方が白藤さんだって気楽に過ごせるでしょ?」
「……」
羅奈は唖然としたように口を開けたまま僕を五秒ほど見つめた。
そして眉間にしわを寄せて首を振り、最悪に残念な結果を知らせるように言った。
「蒼佑って……信じられないほど鈍感な人なのね」
どういう意味だよ。
それじゃあ、まるで白藤さんが僕を好きみたいな推測ができてしまう。
だが勘違いしているのは羅奈の方だ。
確かに小学校の頃は僕を好きだったかもしれないが、それは輝かしい未来に向かって
羅奈は白藤さんの中に、そんな過去の僕への
「ともかく僕は明日は家にいないから。二人で自由に過ごしていいよ」
僕は捨てゼリフのように言って自分の部屋に戻っていった。
「え、ちょっと、蒼佑」
羅奈が呼び止める声は無視することにした。
僕がいろいろ説明するよりも、明日白藤さんと話してみればすべて分かるだろう。
誰よりも僕の没落を間近で見ていた白藤さんなら、この五年の僕の衰退ぶりを詳しく説明してくれる。そして羅奈は自分の勘違いに気付くだろう。
羅奈は……もしかして白藤さんと仲良くなって、僕との仲を取り持ってあげようなどと思ったのかもしれない。
羅奈は本当に母さんみたいなところがある。
自分の友達が欲しかったわけではなく、孤独な僕に彼女でも作ってあげようと余計なお世話をしたつもりなのかもしれない。
本当に余計なお世話だ。白藤さんにとっても迷惑な話だろう。
だが腹を立てるというより、僕は申し訳ない気持ちだった。
なぜならきっと……。
その根底には、
自分で彼女一人作ることのできない不甲斐ない兄で申し訳ない。
余計なお世話をしたくなるほど心配させた僕が悪いのだ。
羅奈を心配させないために、僕は彼女でも作った方がいいのかもしれない。
そうすれば、羅奈は不甲斐ない兄に心を痛める必要もなくなるのだろう。
僕は初めて彼女が欲しいと、ほんの少しだけ思った。
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