第17話 二人だけの休日

 土曜日の朝、僕はいい匂いで目が覚めた。


 懐かしい。


 朝ごはんのいい匂いだ。


 母さんが死んでから、湯を沸かす以外に使われたことのなかった階下のキッチンからだ。


 バターの香りとパンの焼ける匂い。


 僕は匂いに誘われるように階下に下りていった。


 キッチンにはエプロンをつけた羅奈が立っていた。


「おはよう。父さんと香奈さんは?」


 僕が言うと羅奈はトレイにオムレツとクロワッサンをのせて食卓に運びながら答えた。


「おはよう。とっくに出掛けたわ。今日も研究所で遅くなるって」


 当然だが、朝食は羅奈の分だけだ。

 この家は、家族というより四人でシェアハウスをしているような感じだ。

 他の誰かの分も作るという発想はない。


 僕は冷蔵庫から昨日買っておいたサンドイッチと缶コーヒーを取り出して、いつもと同じ冷たい朝食を食べることにした。


 ほかほかと湯気の出ているとろとろのオムレツが美味しそうだ。

 クロワッサンはトースターで焼いて、羅奈がかじるとサクサクと音がしている。


 見ないでおこうと思っていても、つい目で食べ物を追ってしまう。

 羅奈は羨ましそうな僕の視線を気にすることもなく、小さな口で小気味よくオムレツとクロワッサンを交互に頬張っている。本当に美味しそうに食べる。


「なんで言ってくれなかったの?」


「え?」


 またいつもの羅奈の唐突に始まる会話だ。


「ママたちにトイレと風呂掃除をするように言ってくれたんでしょ?」


「ああ……」


 もう周回遅れの話だった。


「リビングとキッチンは私とあなたの担当なんでしょ? 聞いてなかったわ」

「うん。転校したばかりで大変だろうから、もう少し落ち着いてからでいいかと思って」


 とりあえずリビングとキッチンは僕の担当として、それなりに掃除していた。

 母さんが生きていた頃のような完璧な掃除とはほど遠いだろうけど。


「私はキッチンを担当するわ」

「うん、いいけど……」


 僕としてもその方がありがたい。

 料理に興味のない僕としては、どこをどう片付けるべきなのか分からない。


「料理は……しないの?」

「うん。自分の食べる物のために時間を使う気になれなくて」


 まるで秒刻みに忙しい人みたいな言い方だが、要するに自分のために何もしたくなかった。


「じゃあ人のためなら料理してもいいの?」

「……」


 そういう発想はなかった。

 そもそも料理を作ってあげるような人もいない。

 父さんのために料理を作るなんて、想像しただけでも気持ち悪いし。


「コンビニ弁当ばかりで飽きない?」

「飽きてはいるけど……飢えがしのげればいいよ」


 羅奈は自堕落なことばかり言う僕に、呆れたように肩をすくめた。


「ママが……蒼佑くんは細かいことばかり言って口うるさいって愚痴ってたわ」


 まあ、トイレや洗面所が汚れてたり、紙が補充されてなかったりしたら逐一香奈さんに文句を言うようにしているから、そうだろうなと想像がつく。


 香奈さんが多少嫌な気分になったとしても、僕は別に気にしない。

 でも羅奈が嫌な気分になるのは気になるのだから仕方がない。

 僕はこの家の口うるさい暴君になることにしたのだ。


「ありがとう」


 突然羅奈は暴君に礼を言った。


「は?」


 母親に愚痴をこぼされるほど嫌がられているのに、お礼を言うってどういうことだ。

 羅奈の言葉はいつも、次の予測がまったくできない。


「私が何を言っても、何度注意しても聞かない人なのよ。だからパパにも愛想を尽かされたのに、全然反省しないんだもの。本人に悪気がないから、なおさら厄介なのよ。でもさすがに結婚を認めないから出て行けっていうのは効いたみたい」


 羅奈は「ふふ……」と可笑しそうに笑った。


 ああ、笑った……と僕は初めて見る羅奈の笑顔を見ていた。


 なぜだか母さんの笑顔を思い出した。

 いや、全然似ていない。

 年も違うし、羅奈の方がずっと美人だろう。


 でも羅奈が笑うだけで、リビング全体が幸せな空気で満たされる。

 家全体が活気づいて、温かいものに包まれていく。


 あの頃当たり前にあったものが、もう一度この家に与えられた。


 僕はただ、この当たり前のものを、もう二度と失いたくないだけなんだ。

 それを失わないためなら、なんだってしようと思っているだけなんだ。


「ねえ。お礼に晩御飯を作ってあげようか」


「え?」


「使いやすくて素敵なキッチンね。亡くなったお母さんは、きっと料理が好きだったのね。お菓子作りの器具も全部揃ってるんだもの。使わなくっちゃ勿体ないわ」


「うん。ケーキとかも作ってたかな」


 あの頃は当たり前に食べていたけれど、今では幻のように手の届かない日常だ。


「あなたのお母さんみたいに美味しくないかもしれないけど」


 羅奈は少し不安そうに言った。


「もう美味しかったかどうかも忘れたよ」


 五年間コンビニ弁当ばかりを食べていた僕の舌は退化して、おふくろの味なんてものも思い出せない。ただ温かい空間に包まれていたことだけ覚えていた。


 そう。思い出しただけで涙が出そうなほど温かい空間に包まれていたことを。


 思い出さないように心を固くして拒絶してきたあの日々を……。


 僕は久しぶりに思い出していた。



 羅奈は朝食の後、キッチンの大掃除に取り掛かった。

 羅奈は以前から料理をよく作っていたようだ。

 まあ、あの香奈さんと一緒に暮らすなら、やらなければ仕方なかったのだろう。


 どうもかいつまんで聞いた話によると、羅奈の父親という人がマメで器用な人で、家事のできない香奈さんの代わりに家のことを全部やっていたそうだ。


 料理もほとんど父親から教わったらしい。


 父親というのはIT関連の仕事だったらしく、在宅勤務が多かったので問題なく過ごせていたようだ。ところが、管理職になり急に出社する日が増えて忙しくなったそうだ。

 しかし、そんな父親に代わって家事を負担しようとせず、自分だけ今までの生活を変えようとしない香奈さんに、ついに爆発してしまったそうだ。


 羅奈が家事のいくつかを請け負って、なんとかあいだを取り持とうとしたが、その羅奈にさえ甘えてやはり自分を変えようとしない香奈さんに、愛想を尽かしたらしい。


 嫌ならやらなければいいじゃない、というのが香奈さんの言い分だ。

 気になるぐらいに家が汚れたり、食環境が悪くなったりすれば自分だってやるのだと。

 だが自分が気になる前にやってしまうあなた達が悪いのだと。

 やってくれと頼んでもないのに勝手にやって文句を言うのはおかしいと。


 潔癖な人間はこの理屈を持ち出されると、非常に腹が立つらしい。


 僕はどちらかというと香奈さん寄りの人間かもしれない。


 いや、少し違うのか。


 僕はただ、僕のために何もしたくなかっただけだ。


 僕が心地よかったり、僕が幸せを感じたりすることを何一つしたくなかった。


 僕は僕という人間が大嫌いなのだ。


 だったら食事も摂らず、学校にも行かず、消滅へ向かえばいいと思うかもしれない。

 だがそれも違う。


 食事を摂らなかったり学校に行かなかったりすれば、親や担任やカウンセラーやらが騒ぎ出す。

 多くの人が僕のために動き、僕のために時間と労力を使うことになってしまう。

 僕なんかのために多くの人を巻き込んではいけない。


 僕は、誰の手も煩わせず、誰にも気付かれず、誰にも影響を与えないままに、僕の幸せを放棄してやりたかった。


 僕はただそれだけを望んで生きている、つまらない人間だった。


 羅奈が現れるまでは……。


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