第16話 変化を望む者

 その日、僕が家に帰ると鍵が開いていた。

 出る時に閉め忘れただろうかとドアを開くと、羅奈が目の前に仁王立ちしていた。


 母さんが死んで以来、帰った時に人がいるということがなかったので少し驚いた。


 僕より一本早い電車に乗って帰っていたらしい。


「ただいま……」


 ずいぶん久しぶりに使った言葉だ。

 だが羅奈は無言のまま、ぬっと手を差し出した。


「?」


 僕はどういうことだろうと思いながら、玄関で靴を脱いだ。

 その僕に、さらに羅奈は怒った顔で手を差し出す。


 僕は首を傾げながら、仕方なくその手をぎゅっと握りしめた。

 すると羅奈は「きゃっ!」と叫んで、僕の手を振りほどいた。


「な! なにするのよ! 女子高生の手を軽々しく握れると思わないでちょうだい!」

「え? だって、手を差し出してくるから……」


 自分から握手を求めておきながら、濡れ衣もいいところだ。


「ち、違うわよ! 模試の結果を見せてと言ってるの!」


 分かりづらい。

 それならそうと言ってくれ。

 この状況でそう察することができるヤツなんて超能力者ぐらいだ。


「模試の結果?」


 僕はそれにしても意味が分からないと、リビングに向かいながら聞き返した。

 羅奈は、その僕の後をついてきて、また手を差し出してくる。


「模試の答案と成績分析表をもらったでしょう? 見せて!」


 なんで命令口調で怒っているのか分からない。

 僕は仕方なくソファにカバンを置いて、中から模試の成績表を取り出した。

 羅奈はそれを奪い取ると、パラパラとめくって見ている。


 それほど真剣に見るようなものではない。

 多角形になった各教科の得点分布図は、中央にぎゅっと縮まった小さな図形を描いている。

 およそ特進生の羅奈が見たこともない貧相なものだ。


 羅奈はしばらく僕の成績表を見つめてから、じろりと僕を睨みつけた。


「数Bの先生が言ってたの」

「は?」


 羅奈の話はいつも唐突に何の脈絡もなく始まる。


「数Bの最後の難問は、特進クラスの誰も正解者がいなかったって」

「へえ……」


 それがどうした。まだ話は見えてこない。


「でも学年で一人だけ正解した生徒がいるって」

「……」


 少しだけ何を言いたいのか分かってきた。


「あなたよね? 他の簡単な計算問題は全部白紙のくせに、最後の問題だけ解いてあるわ」


 羅奈は、真っ白な中に一問だけ丸のついた答案を突き出した。


「そう……みたいだね」


 いや、だから何?

 羅奈が怒る意味が分からない。


「なんでこういうことをするの?」

「こういうこと? 特進生を差し置いて解くなってこと?」

「そんなこと言ってないわよ!」


 羅奈はさらに怒りを増したらしい。


「なんでこんな難しい問題が解けるくせに、他の問題を解かないのよ。ちゃんと受ければ、もっといい点が採れたはずじゃない!」


 ようやく羅奈が何を言いたいのか分かった。

 なんで怒っているのかは分からないけど。


「あのさ。勘違いしてると思うんだけど、僕だけが最後の問題を解けたのは、僕が特進生のやつらより賢いからじゃないよ」


「なんでよ。みんな解けなかったのに、蒼佑だけが解けたんでしょ?」


「違うよ。みんなは最後の問題に辿り着くまでに多くの設問に答えて、残りの五分ほどで解こうとしたからだよ。僕は最初からその問題だけを九十分かけて解いたんだ。みんなだって九十分かけていたなら解けたはずだよ。そうだろ?」


「……」


 羅奈は僕の妙な理屈に反論できなかったようだ。

 急に勢いを失って黙り込んでしまった。


「だいたい何で怒ってんの? バカな兄がいるのが恥ずかしいから?」


 兄妹だと思わなくていいと言ったのは羅奈の方だ。

 僕がどんな点を採ろうが羅奈には関係ないはずだ。


「そんなこと思ってないわ。ただ……」


「ただ、なんだよ」


 僕だって理不尽な要求は拒否させてもらう。

 羅奈の家族だからって、僕が優秀な成績を採らなければいけない理由なんてない。

 今まで通りの僕を変えるつもりなんてない。


 少し口調を荒げた僕に、羅奈は俯いたままぽそりと呟いた。


「なんか悔しいの。なんでか分からないけど、悔しいんだもの。しょうがないでしょ」

「……」


 なんだそれ?


 なんでか分からないって何だよ。


 羅奈が分からないものを、僕が分かるはずもない。


 そんな返答があるか?


 ずるいじゃないか。


 なんでか分からないくせに悔しいとか言われたら……。


 僕はすごく申し訳ないような気がしてくるんだ。


 羅奈が気落ちすると、全責任が僕にあるような気がしてしまうじゃないか。


 僕にどうしろって言うんだ。


 言うな、言うな、ともう一人の僕が必死で止めているのに。


 別の僕が尋ねていた。


「じゃあ何点採れば悔しくなくなるんだよ」


 羅奈ははっと顔を上げた。


 そんな期待に満ちた目で見ないでくれ。


 僕は最下位から片手で数えるほどの成績なんだぞ。

 急に上位に入れとか言われても無理だからな。無茶を言われる前に先手を打った。


「じ、じゃあ、次は名前が貼り出されるぐらいには頑張るよ。それでいいだろ?」


 僕は何を言っているんだ。

 そんな面倒な約束をしてどうするんだ。


 でも……。


 羅奈が悲しむのは面倒より嫌なんだ。

 そう思ってしまった。


 羅奈は期待を込めて「うん」と答えた。


 あーあ。約束してしまった。


 僕はなんでこんなに羅奈に弱いんだ。

 自分でも分からなかった。



 進学校で最下位に近い人間が、上位三分の二に入るのは思った以上に大変そうだった。

 だいたい一学年240名いるとして、160位に入るには80人抜かなければならない。


 これまで五年もさぼりまくっていた人間が進学校の80人を抜くのは至難の業だ。


 だが例のごとく、羅奈にスイッチを入れられた僕は、よく分からない衝動に突き動かされるように勉強を始めた。


 真面目にノートをとって、休み時間にも教科書を読み直している僕を見て、哲太が目を輝かせて寄ってきた。


「蒼佑が真面目に勉強している姿を久しぶりに見たな」


 なぜか嬉しそうだ。


「やっぱり俺のせいか?」

「?」


 何を言ってるんだ、と僕は首を傾げた。


「俺に模試で負けたことが余程悔しかったんだな? うん、そうだろう。分かってるよ。小学校の頃は月とスッポンほど差があったのに、その俺に負けたんだもんな」


 いや、哲太に負けたことは別になんとも思ってないんだが。

 僕が勉強しているのは、羅奈に悔しい思いをさせないためだ。

 お前の成績とは関係ないと言おうと思った僕だったが、哲太がその前に続けた。


「そんな気がしてたんだ。俺に負けたらきっと蒼佑も悔しくてやる気になるって。だから絶対名前が貼り出されるぐらいの成績を採ってやろうって、俺頑張ったんだ」


 こいつは何言ってるんだ?


 それじゃあまるで僕を奮起させるために頑張ったみたいじゃないか。

 名前が貼り出されて白藤さんとかに見直してもらってモテたかったからだろ?

 適当な嘘つくなよ。


 嘘を……。


 だが勉強している僕に喜んでいる哲太は、間抜けなほど正直な澄んだ目をしている。


 この五年、無気力で無感動で何の面白みもなく堕ちるところまで堕ちていく僕を、なんだかんだと見捨てずに親友だと言い続けてくれた。


 他に友達ができないのかと思っていたが、たぶん作ろうと思えばいくらでも友達はできるタイプだ。それなのに……。


 なんで僕なんかのために……。


 言いかけた言葉をぐっと呑み込んで「お前、バカじゃないの?」とだけ答えた。


「へへ」と嬉しそうに鼻の頭をこする哲太に、僕としたことが喉の奥から熱いものが込み上げてきそうになった。


 だから「もううるさいから、あっち行け、お前」と追い払った。


 哲太のくせに……僕を感動させるなよ。

 うっかり涙が溢れそうになるだろう。


 でも、せっかくだから、お前のせいでやる気になったことにしといてやるよ。バカ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る