第13話 南 羅奈

 羅奈と次に会ったのは、日曜日の夜だった。


 土曜日は、学園祭の前夜祭でずいぶん遅くなり、日曜の学園祭当日も早くに出て行った。


 十時前に帰ってきた羅奈は、送別の花束を腕いっぱいに抱えていた。

 泣き腫らした顔を見れば、椿が丘女子の友人と良好な関係を保っていたのがよく分かる。


 そうまでして転校する必要があったのか疑問が残るところだが、羅奈にはもう一つ大きな問題が残っていた。


 父さんと香奈さんは日曜日の今日も仕事に行ったが、いつもより早めに帰って羅奈の帰りを待っていた。二人は昨日のことで、ずいぶん僕を警戒しているようで、帰るなりそそくさと掃除担当の場所をチェックして、ほっとした顔でリビングに戻ってきた。


 僕は怒らせると何を言い出すか分からない危険人物と認定されたらしい。


 羅奈は妙に家が綺麗になっていることには気付いただろうが、知らない間に、権力をふりまく面倒な横暴君主が現れたことはまだ知らない。


 僕は良き君主を目指して、みんなに新しい豆で淹れたコーヒーを振る舞うことにした。


 ソファに座る父さんと香奈さんは、昨日のまずいコーヒーを思い出して躊躇している。

 向かいの一人掛けのソファに座った羅奈だけが、怪しみながらも「ありがとう」と言ってカップを手に取った。


 すぐにカップに口をつける羅奈に、父さんと香奈さんは気の毒そうな視線を向けた。


 しかし羅奈は「美味しい!」と言って僕の方を見た。


 当然だ。僕はやると決めたら、全力で極める人間だ。

 SNSで美味しい豆を調べ上げ、わざわざ駅前まで買いに行ったのだ。


 父さんと香奈さんは、羅奈の反応を見て恐る恐るカップに口をつけた。

 そして昨日とは全然違う美味しいコーヒーに、顔を見合わせほっとしている。


 僕は義務ばかりを押し付ける暴君ではない。

 役割を果たした臣下には、相応の見返りを渡したいと思っている賢君だ。


「蒼佑にはさっき話したのだが、明日婚姻届を出しにいこうと思う」


 父さんが羅奈に切り出した。僕はソファのそばにカップを持って立ったまま聞いていた。

 僕もさっき聞いて驚いたのだが、まだ婚姻届を出してなかったらしい。


「それでね。あなたの戸籍をどうするかなのだけど……」


 さっき少し聞いた話によると、羅奈は香奈さんが離婚した時に前の父親の元に籍を置いたままにしていたらしい。羅奈がそれを望んだわけでも、父親が譲らなかったわけでもない。


 一番手間がかからなかったからだ。


 香奈さんらしいといえば、これ以上香奈さんの人柄を如実に表していることはない。


 しかも名字を変えるのが面倒だと、香奈さん自身も前夫の名字を名乗っている。

 つまり離婚はしたものの、香奈さんだけが籍を抜けて、名前は二人とも婚姻時のままだそうだ。


「私は啓介さんの籍に入るから、南香奈になるのだけど、羅奈は籍をそのままパパのところに置いてこれまで通りの名字でもいいのよ。どうする?」


 僕は聞くまでもないなと思っていた。

 最初から一年半の家族ごっこに付き合うだけだと言っていたし、高校を卒業したら家を出ていくと言っていた。その一年半だけのために名字を変える必要はない。


 香奈さんも戸籍の名字は変えるものの、職場では面倒なのでこれまで通りの名前でしばらく過ごすとも言っていた。羅奈もそうするだろう……と。


 だが羅奈は間髪入れずに答えた。


「戸籍を移すわ。南羅奈になる」


 僕は思わず「え⁉」と大声を出してしまった。


 みんなが一斉に僕を見た。


「あら、蒼佑くんに何か問題でも?」

「お前には関係ないだろう? 羅奈ちゃんが慣れるまで大変なだけだ」


 いや、そうだけど。


「でも……同じ名字だと学校のやつらに何か勘繰られるかも……」


 羅奈は知らないだろうが、先日編入試験を受けに来たのを見ただけで、すでにクラスの男どもは羅奈の転校を手ぐすね引いて待っているのだ。

 女子高育ちの羅奈は、可愛い子を見つけた時の男達の過激な生態を知らないのだろう。

 その可愛い女の子が僕の妹になったなんて知ったら……。


「あら、蒼佑くんは羅奈と兄妹だと知られるのが恥ずかしいの?」

「お前よりも羅奈ちゃんの方が気にすると思っていたぞ。なんだ肝っ玉が小さいな」


 いや、分かってるよ。

 僕よりも、羅奈の方が百害あって一利なしなことぐらい。


「僕は別にいいんだけど……」


 羅奈はいいのだろうかと思っただけだ。


「だったら問題ないな。明日婚姻届と一緒に羅奈ちゃんの戸籍の手続きもしておこう」

「それでいいわね、羅奈」


 羅奈はこくりと肯いて、父さんと香奈さんは安心したように「じゃあ明日も早いから」と言って寝室に行ってしまった。


 当然だが、飲んだコーヒーカップを片付けようという発想はない。

 まあ、キッチンとリビングは僕と羅奈が担当すると言ったのだから仕方がない。


 その話も羅奈にしなければと、僕は父さん達が座っていた向かいのソファに腰を下ろした。


 その僕を羅奈が不服そうににらむ。


「え?」


 僕は何か羅奈を怒らせるようなことをしただろうか?

 美味しいコーヒーを淹れて、羅奈の戸籍の心配をしただけだ。


「私が妹だって知られたら迷惑だって言いたいの?」


 羅奈はねたような顔で告げた。


「あ、いや。そうじゃなくて、羅奈の方が嫌なんじゃないかと思って」


 羅奈は少し怒りを鎮めたようだが、口を尖らせたまま答えた。


「もちろん嫌よ」

「だったらなんで?」


 それなら籍を移さずに前の名字のままにすればいいはずだ。


「パパの名字が嫌いだったの」


「は?」


 僕はそういう問題なのか、と訳が分からなくなった。

 名字に好きとか嫌いとか……そりゃああるのかもしれないが、僕の妹だと知られるより嫌な名字って……?


 その時初めて、僕は羅奈と香奈さんの名字を聞いてないことに気付いた。


 そういえば、自己紹介の時も二人とも下の名前しか言わなかった。

 すでに再婚が決まってからの自己紹介でもあるので、名字を知る必然性も感じなかった。


「あの……お父さんの名字って……」

「……」


 羅奈は頬をぷっと膨らませ、言いにくそうに小さな声で呟いた。


「熊田……」


 熊田羅奈。

 

 まあ……勇ましい名前ではあるが、それほど変な名前でもない。

 そこまで嫌がるほどでもないと思うが。


「じゃあ、離婚する時に香奈さんの旧姓に戻せば良かったのに」


 戸籍制度はよく知らないが、今更難しいのだろうか。

 祖父母が生きていれば、養女にしてもらうという手もある。

 その方が一年半だけの家族となる僕達の名字よりはいいかもしれない。


「ママの旧姓はもっと嫌なの」

「え?」


 どうやら羅奈は、自分の意志で父親の籍に残ったらしい。

 僕が黙ったままなのを、返答待ちだと思った羅奈は、ますます口を尖らせてぽそりと答えた。


「猿田……」


「え?」


 聞き返す僕に、羅奈はやけくそのようにもう一度言った。


「猿田よ! 悪い? 熊か猿しか選べなかったのよ! 仕方ないでしょ!」


「……」


 猿田羅奈。


 うーん。いや別に悪くないんだけど。

 全国の熊田さんと猿田さんは、そこまでコンプレックスを持ってないと思うし。

 世の中にはもっと変な名前の人はいくらでもいる。


 ただ、熊か猿かという選択肢に立たされた美少女羅奈は……ちょっと笑える。


「な! なに笑ってるのよ! 今笑ったでしょ! 前髪で隠してても見えたわよ!」


 羅奈は立ち上がり、真っ赤になって言い募った。


 僕は慌てて緩んだ口元を引き締める。


 それにしても、うちが猪田とか馬田とかじゃなくて良かった。

 いや、猫田とか兎田とかなら案外可愛いかもしれない。


 そんなことを考えると「ふ……」とうっかり笑いが漏れてしまった。


 羅奈は漏れた笑い声を聞いて「大っ嫌い!」と怒って行ってしまった。



 一人取り残されたリビングで、僕はツボにはまってしまったらしい。

 無性に可笑しい。

 笑いがこみ上げてくる。

 こんなに笑ったのは久しぶりかもしれない。


 ずいぶん長い間、本気で笑ってなかったような気がする。


 それほど面白い話でもないだろうに、可笑しくてたまらない。


 一週間前の僕なら、きっとこれほど笑ってなかっただろう。


 一か月前の僕なら何も感じなかった。


 一年前の僕なら、ただの事実として受け止めていただけだろう。


 三年前の僕なら、くだらないことで悩めて羨ましいと皮肉ってたかもしれない。


 五年前の僕なら……こんなことがあったのよと話す母さんに、めんどくさそうに相槌を打って、でも一緒に笑っていたのかもしれない。


 五年前には……そういえばこんな風に笑っていたような気がする。


 まだこんな僕が残っていたのだと思うと不思議だった。


 五年前に詰んだ僕には、もう二度と戻らない感情だと思っていた。


 家に命が吹き込まれたように、僕の心にも説明できない何かが吹き込まれていた。


 たぶん羅奈のおかげだ。


 羅奈が現れてから、僕は少しずつ何かを取り戻している。


 南 羅奈。


 いいんじゃないかな。


 うん。一番羅奈に似合う名前だと思う。



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