第12話 敗北者の絶対権力

 九時になると、父さんと香奈さんが揃って起きてきた。


 引っ越して初めての休日を家で過ごすのかと思ったら、今日も二人で仕事に行くらしい。

 何を研究しているのか知らないが、今が大詰めで、一分一秒も惜しい時期のようだ。


 二人にとって再婚も同居も、最も効率的に研究に専念できる選択だったらしい。


 特に香奈さんは娘を一人で置いておくのが心配だったようだが、同じ年ごろの男がいる家に置いておく方が心配じゃないのだろうか。


 相手が詰みきった僕じゃなかったら危なかったぞ。

 まあ……羅奈から見れば、多少危険でも爽やかイケメンの方が良かっただろうけど。


 ともかく準備をして出かけようとしている二人の前に僕は立ちはだかった。


「あのさ、提案なんだけど。ちょっと座ってくれる?」


 二人は今にも玄関に向かおうとしていた足を止め、顔を見合わせてソファに腰を下ろした。


 僕はそんな二人の前に、まずいコーヒーをカップに入れて差し出した。

 作り過ぎて余っていたのだ。


 二人は気の利いたもてなしに少し驚きながら、嬉しそうにコーヒーをすすった。

 そしてあまりのまずさに顔をしかめて、すぐにカップを置いた。


 だからといって、まずいと怒り出すわけでもなく、急いでいるからと僕の話を聞かないで出ていく人たちでもない。


 常識知らずなわけでも、思いやりの足りない人たちでもない。

 強いて言うなら、研究に没頭し過ぎて人のことを考える余裕がないだけだ。

 話せば分かる人たちのはずだった。


「あのさ、家族になったからにはルールは作った方がいいと思うんだ」


「ルール?」


 父さんと香奈さんは声を揃えて聞き返した。


「うん。まずは掃除。ゆうべ僕と羅奈でリビングとキッチンを少し片付けたんだ」


「あら、そういえばいつもより片付いているわね」

「うむ。なんか部屋の様子が違うとは思った」


 この二人にとって家というのは、その程度の興味しか持てない場所らしい。


「みんなが気持ちよく過ごすために、掃除はきちんとするべきだと思うんだ」


「あら、私は潔癖症でもないし、多少のことは気にしないわよ」

「うむ。私も散らかっているからといって腹を立てたりしないぞ」


「ふふ。啓介さんはそうよね。細かいこと言う男の人って苦手なのよ」

「うむ。私はそんな心の狭い人間ではない」


 二人は新婚カップルらしく、いちゃついてみせる。

 似た者夫婦は意気投合しているらしい。

 だが、そんなことにひるむ僕ではない。


「二人はそれでいいかもしれないけど、僕と羅奈は嫌なんだ」


「あら、じゃあ掃除してくれてもいいわよ。羅奈は前の家でもそうしてたし」

「うむ。お前がそんなに綺麗好きとは知らなかったが、好きにすればいい」


 気になる人がすればいい。

 確かにそうだが、自分は気にならないと言いつつ綺麗に片付いた部屋を享受するのだ。


「悪いけど、一緒に暮らすなら役割は担ってもらう。家族の一人でも、現状に不満を持っているなら、みんなで解決すべきだろう? そうでなければ家族になった意味がない」


「えー、蒼佑くんって案外言う人なのね」

「うむ。お前がそんなことを言うとは思わなかった」


 非難というよりは二人とも驚いているようだ。


「ともかく役割を決めさせてもらう。父さんは今まで通り庭の手入れと、それから風呂掃除。香奈さんは洗面所とトイレをお願いします。リビングとキッチンは僕と香奈で担当します」


「えー、どういうこと? 私は洗面所とトイレを掃除すればいいの? 今度時間のある時でいいかしら? それならいいわよ」

「うむ。私は庭の手入れは毎朝出かける前にやっている。それから時間のある時に風呂掃除をすればいいのか? まあ、それなら出来る」


 騙されてはいけない。

 この二人の「時間のある時」というのは永遠にやってこない時間だ。


「それぞれの場所の全面管理をお願いします。どんなやり方でもいいので、常に清潔に保てるように全責任を負って下さい」


「うーん。仕方ないわね。分かったわ」

「うむ。ではもう仕事に行ってもいいかな」


 こういうのを安請け合いと言う。

 適当にやるやると言って、今度今度で誤魔化すつもりだろう。

 自分がそうだから、よく分かる。


「分かってもらえて良かったです」


 僕はにやりと長い前髪の下で微笑んだ。


「うん。じゃあ行くわね」

「うむ。行ってくる」


 二人はカバンを手に、再び玄関に向かおうとした。

 その二人の前に再び僕は立ちはだかった。


「待ってください。各々の役割は今、この瞬間から始まりました。清潔に保つ責任と言いました。それは今現在の状態も言います。それぞれの担当場所を掃除してから仕事に行って下さい」


「えー、そんな話聞いてないわ」

「うむ。庭の手入れはして行くつもりだったが……」


 二人は心底迷惑そうに言い募った。


「今日は土曜日だし休日出勤でしょ? 何時に行かなければならないという決まりもないはずだ。出来るよね?」


「そ、それはそうだけど……」

「少しでも早く行って研究に取り掛かりたいのだが……」


「納得できないと言うなら、僕はこの再婚を認めません。香奈さんと羅奈には出て行ってもらいます」


 二人はぎょっと驚いた。


「えー、そんなこと引っ越してから言われても」

「そうだぞ、蒼佑。もう二人には戻る家がないじゃないか」


「困るというなら、今すぐ掃除を始めて下さい。もう一度家を探して二人で出ていくのと、今すぐ掃除するのとどっちが大変なんですか?」


「蒼佑くんって、結構細かいこと言う子だったのね」

「うむ。私に似て寛容な男だと思っていたが……」


 僕が細かい男とか、寛容じゃないとか、どうでもいい。

 そう思うなら思えばいい。

 僕がどう思われようと、耐久レースの敗北者として、この家の主に自ら立候補した者として、絶対権力を行使するまでだ。


「いいから、今すぐ掃除してください。掃除せずに行ったら、二人の荷物を引っ越し業者に引き取りにきてもらいます」


「……」


 二人は僕の本気を感じ取ったのか、もう一度引っ越し作業をする手間に比べたら掃除する方がずっとマシだと判断したようだ。


ため息をつきながら、そそくさと掃除を始めた。


生半可な掃除をしようとする二人に、僕が鬼教官のごとく見張り、何度もやり直しをさせたのは言うまでもない。


僕と同じく、やれば出来る二人は、思ったよりも綺麗に掃除して、ようやく解放されると逃げるように仕事に行った。



 掃除というのは、一旦本気で始めると、あっちもこっちも気になり始める。

 みんなが出掛けた一人きりの家で、掃除機をかけモップで拭いてまわった。


 階段と二階の廊下まで掃除すると、なかなかの重労働だった。


 そして死んだ母さんの足跡そくせきを追っているような気がした。


 学校に行くのが面倒な朝など、僕は一日家にいる母さんを羨ましく思ったものだった。


 母さんだけ家にいて、勉強も仕事もせずに昼寝をしてテレビを見てずるいと思った。


 でもいつも家を綺麗に保って、手の込んだ料理や弁当を作る母さんは、それほど暇な時間を持っていたのだろうか。


 家は毎日掃除しても毎日汚れ、洗濯物は干して畳んでも、また次の汚れものが出てくる。

 家事は思った以上に際限がなく、終わりが見えない。


 でも僕は母さんのことを、家の中で一番楽をしている人だと思い込んでいた。


 僕が小学校高学年になってからは、近所のパン屋さんでパートの仕事もしていたが、それでも家の中で一番楽なのは母さんだと思っていた。


 家事は一番楽な母さんがするべき仕事で、勉強に忙しい僕が手伝う必要はないと。


 僕はどうして「たまには僕がやるよ」の一言を言わなかったのだろう。


 きっと母さんは「大丈夫よ」と断っただろうが、嬉しかったに違いない。


 どうして「いつも綺麗に掃除してくれてありがとう」と言わなかったのだろう。


 母さんは一度だって恩を売るようなことは言わなかったが、すごく喜んだだろうに。


 どうして「いつも大変だね」とねぎらうこともしなかったんだろう。


 どうして、どうして、どうして。

 今更気付いても遅いことばかりなのに。


 僕の心に後悔というとげが深く根を張って、五年経った今も成長を続けていた。


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