第11話 敗北者

 羅奈たちが引っ越してきて五日が過ぎた頃、僕は真夜中に目が覚めた。


 階下からすすり泣くような女の声が聞こえてきたのだ。


 ついに汚部屋が過ぎて、浮遊霊が棲みつくようになったかと思ったが、よくよく考えてみると羅奈の声に違いなかった。


 気付かないフリをして寝てしまおうかと思ったが、どうにも気になって起き上がった。

 夜中の二時だ。


 最近、羅奈は学園祭の準備だとかで遅くに帰ってくるが、それにしても夜中の二時に、まだ風呂でも入っていたのだろうか。

 風呂場ですべって怪我でもしたのかと思った。


 怪我をしたのなら、僕だって見過ごすわけにはいかない。

 骨折でもしていたなら救急車を呼ぶ必要もある。


 僕はそっと階下に下りて声のする方に向かった。


 風呂場の方だ。


 やっぱりすべって怪我でもしたのかと思ったが、泣き声に混じって羅奈の声が聞こえた。


「うう……。もう……なんなのよ。この家の人たち。ひっく。こんな赤カビだらけの風呂場によく耐えられるわね。もう嫌だ。我慢できない……うう。鏡だって水垢だらけだし、ひっく。なんで誰も気持ち悪いと思わないの? 信じられない……ううう」


 羅奈の愚痴る声と共に、ゴシゴシとブラシで床を掃除している音がしている。


 とうとう耐え切れずに、我慢比べ大会から脱落してしまったらしい。


 五日は思ったより早かったのか、よく耐えたのか。


 羅奈の愚痴はまだ続く。


「リビングだって衣類とか新聞とか……なんで誰も片付けないのよ。ママは分かってたけど、ママみたいな人がもう二人増えるなんて……耐えられない。ううう……。こんなことなら離婚したパパの方が良かったじゃない。パパがなんで離婚を言い出したのか……ママは全然分かってない。ひっく……。もう嫌だ……」


 ぐすぐすと泣きながら、洗剤を撒くシュシュという音と、スポンジで浴槽を磨いている音がしている。


 どうやら離婚の原因は、香奈さんの家事への無頓着さもあるらしい。

 父さんの洗濯物を洗っていたと聞いたが、せいぜいコインランドリーに突っ込んでいた程度なのだろう。父さんにとっては、それだけでも有難かったのだろうけど。


「学園祭で遅く帰ってきて、なんで私が風呂掃除してるのよ。明日だって早いのに。これじゃあ今までと一緒じゃない。ううん。家族が増えた分、もっと私だけが大変になるんじゃない。ひどい……。みんなみんな、ひどいよ……ううう」


 僕はドアの外で聞きながら、自分がひどい悪人のような気がしてきた。


 羅奈の言うことはもっともだ。


 僕は学園祭が近いわけでもなく、近くの高校で早くに帰って遅く出ていくのに、一番遠くまで通っている羅奈を家事責任者にするのは悪の所業と言ってもいい。


 僕の中で何かが切り替わった。


 動機が出来たのだ。


 羅奈が泣いている。悲しんでいる。


 一年半といえども、今は家族なことに違いはない。


 泣くほど辛い思いをしているなら、助けるべきだ。


 僕はリビングに行って、ゴミ袋を取り出すと黙々と片付け始めた。


 何か使命感のようなものがみなぎっている。


 こうなると僕は非常に有能な戦士となる。


 手際よくゴミを分別して、テーブルとソファを埋め尽くす雑多なものたちを片付けていく。そしてキッチンに積み重なった弁当ガラを捨て、流しにたまったコップを洗い始めた。


 やれば出来るんだ。ただやらないだけなんだ。


 やる動機が見つからなかっただけなんだ。


 出来ることなら僕だって、片付いたリビングと綺麗なキッチンの方が心地いい。


 洗い物をしながら鼻歌まで出てくる。


 ふと気付くと、リビングの入り口で羅奈が目を丸くして突っ立っていた。

 風呂掃除用なのか、動きやすいTシャツと短パン姿だ。

 泣きはらした目がまだ赤い。


「なに……やってるの?」


 羅奈は呆然とした顔で尋ねた。


「なにって……洗い物だけど……」


「……なんで?」


 なんでと言われても、洗い物があるから洗っているのだ。

 それ以外の理由を聞かれても、僕にも分からない。


 ただ、夜中の二時過ぎに鼻歌混じりに洗い物をしているのだから、怪しむ羅奈の気持ちもよく分かる。


 羅奈は少し片付いたリビングを見渡した。


「片付けて……くれたの?」


 片付けてくれた……という言い方は少しおかしい。

 それでは、まるで羅奈が散らかしたリビングを僕が片付けてあげたみたいだ。


 羅奈はこのゴミ部屋の汚れに、何一つ加担していない。

 我慢比べから脱落した敗北者の羅奈は、すでにすべての家事の責任者になった気がしているのかもしれない。


 だが敗北者は一人じゃなかったんだ。


 僕も泣いている羅奈の言葉を聞いて脱落したのだ。

 理由はどうあれ、僕も我慢比べの敗北者だった。


 

「ここ。……こんなに可愛いタイルがはまっていたのね」


 羅奈は怪しみながらも洗い物をしている僕の近くにきて、弁当ガラを片付けたことで現れたコンロ周りの壁のタイルを見ながら言った。


 そういえば、久しぶりにこの装飾タイルを見た気がする。

 母さんの趣味で、白いタイルの中に一定間隔で花柄のタイルが混じっている。


 母さんが生きていた頃は、揚げ物をした後なんかはいつも綺麗に拭いていたっけ。

 母さんはこのキッチンがとても気に入っていて、大事に使っていた。


 まさかたった五年で、こんなほこりとシミにまみれ、弁当ガラで見えなくなるとは思ってなかっただろうなと思うと、申し訳ない気持ちが湧いてくる。


 羅奈は、そばにあった台布巾だいふきんを手にとると、タイルの一つ一つを丁寧に拭き始めた。


 シミとほこりでくすんでいたタイルは、羅奈が拭くと魔法のように綺麗になった。


 瀕死のキッチンに息が吹き込まれたような気がする。


 五年間眠り続けていたキッチンが息を吹き返したのだ。


 羅奈という存在が、闇に沈んでいきそうだったこの家に灯をともしてくれた。

 そんな気がした。


 そして僕の何も感じなかった心にも、血が通い始めたような気がしていた。



 結局、三時頃までキッチン周りを掃除していた僕たちだったが、羅奈は学園祭の準備で土曜日の今日も学校へ行くというので、きりのいいところで寝ることにした。


 翌朝、僕が八時に起きた時には、すでに学校に行ったようだった。


 僕は少し綺麗になったリビングのソファに座り、淹れたてのコーヒーを飲んでいた。

 母さんが毎朝コーヒーメーカーで淹れていたのを思い出したのだ。

 あちこちの扉を開いてコーヒーメーカーとコーヒー豆を見つけた。


 豆をミルで挽いて抽出まで自動でしてくれる優れものだ。


 だが飲んでみるとひどくまずかった。

 やはり五年前から放置されていた豆ではダメだったようだ。

 今日豆を買いにいってみようと思っている。


 そんなことを思う自分が不思議だった。

 僕は新しい豆で淹れた美味しいコーヒーを羅奈に飲ませてあげたいと思っていた。


 自分が誰かのために何かをしたいなんて、ずいぶん久しぶりに思った気がする。


 羅奈が可愛いからだろうか?

 羅奈が女の子だからだろうか?

 羅奈が妹になったからだろうか?


 どれも違うのだと思う。


 普通の男なら、可愛い妹が出来たなら何か喜ばせることをして好感を持ってもらいたいと、出会った最初からせっせと動くのだろう。


 だが僕はこの五年、誰にもそんな感情を抱かなかった。

 羅奈と出会ってから今日までも同じだ。


 ただ羅奈は……。


 この家の中のゴミに埋もれてしまった母さんを見つけてくれるんだ。


 僕がもう忘れて、見ないフリをして、ぞんざいにしてきた母さんを。


 誰もがそんなものはなかったかのように無視している母さんを。


 この五年、多くの人が僕の心を動かそうと努力してくれた。


 祖母、学校の先生、哲太、白藤さん、クラスメート。


 みんな母さんを亡くした僕に寄り添い、励まし、立ち直るようにと行動してくれた。


 僕は分かっているんだ。

 みんなが僕のためを思って時に優しい言葉をかけ、時に叱咤激励してくれているのだと。


 僕はみんなの誠意に報い、答えるべきなんだと。


 でも分かっていても、僕の心は重いかせで縛り付けられたように動かなかった。


 僕が欲しかったのは僕に対する優しい言葉じゃなかったんだ。


 僕が欲しかったのは、この家に置き去りにされ、ないがしろにされたままの母さんに対する優しさだった。


 今になってようやく分かった。


 羅奈は……羅奈だけは……わずかな痕跡のような母さんを大事にしてくれる。


 そんな羅奈を……僕も大事にしたいと思ったんだ。


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