第10話 我慢比べ


 家というものは、誰かが家事を請け負う覚悟がなければ、少しずつすさんでいく。


 母さんが死んですでに五年間、少しずつ崩壊に向かっていった家は、祖母が辛うじて持ちこたえさせてくれていたが、父さんの再婚によってその祖母も手出ししなくなった。


 しかも人数が増えた分、崩壊は早まっている。


 朝、最初に家を出るのは羅奈だった。


 椿が丘女子では今週末に学園祭があるらしく、それを終えてから転校することになっていた。

 だからこの家から一番遠い学校に通うため、毎朝六時に家を出る。


 羅奈が引っ越してきてから二日目の朝、僕は五時頃トイレに起きた。


 まだ薄暗いキッチンに明かりが見えて、こんな早くに起きているのかと驚いた。


 トイレから出て、なにげなくキッチンに目をやると、少し開いたドアから険しい顔で立ち尽くす羅奈の姿が見えた。

 汚れたコップや飲み残した缶コーヒー、弁当ガラやビニール袋が散乱している。

 ビニール袋に手を出そうとして、なにかを我慢するように拳を握り、首を振っていた。


 汚キッチンに耐え切れず、片付けたいのだが我慢しているらしい。


 片付けたいなら無理せず片付ければいいと思うのだが、新たに家族になった四人の間には、暗黙の内に我慢比べ大会が始まっていた。


 誰が最初にこの惨状に耐え切れず片付け始めるのかを競う我慢比べだ。


 最初に耐え切れなくなった者が、家事責任者に自動的に任命されてしまう。


 この家の管理者という最高の権力を得るのだ。


 みんなに「この汚リビングでいいのか、汚キッチンでいいのか!」と問いかけ、率先して片付けに着手し、それぞれの役割を指示する。さぼっているものがいれば注意を与え、家が美しく保たれているかを常に監視する。


 大きな責任の代わりに絶大な権力を持つ。


 この家の実質のぬしとなるのだ。


 だが残念なことに、この家の四人は誰もその絶大な権力を欲しがらなかった。

 それよりも家事の責任という重荷の方がわずらわしい四人だった。


 そうなると決着がつくまで無制限の耐久レースが繰り広げられる。


 父さんと香奈さんは、もともと無頓着な人だった。

 部屋が汚れてようが、ゴミが散乱してようが、とりあえず寝て生活出来ればよしとする。

 二人にとって一番大事なのは研究であって、それ以外のすべては些細なことなのだ。


 そして僕もまた潔癖な人間ではない。

 この五年で汚部屋に免疫のできた僕は、多少のことは耐えられる。

 この程度のゴミ屋敷は、まだまだ序の口だ。


 そうなると、羅奈が圧倒的に不利だった。


 羅奈は自分の部屋をかたづけている様子から見ても、綺麗好きと思って間違いない。


 本当は汚リビングも水回りも掃除したくて仕方ないはずだ。

 だが、なんで再婚についてきた連れ子の自分が、この家の家事責任者にならなければならないのか、と納得できないのだろう。


 しかも一年半だけの仮住まいのつもりなのだ。


 当然だ。僕もそう思う。


 羅奈は自分に言い聞かせるように頷くと、部屋から持ってきたコップを洗って、冷蔵庫の野菜ジュースを注ぎ、菓子パンだけの朝食を摂ることにしたらしい。


 部屋に戻って、もうひと寝入りしていた僕は、玄関のドアが閉まる音を聞いて、羅奈が学校に行ったのだなと、少しほっとした。


 家の汚れに目をつむり、早々に学校に向かったようだ。


 二日目の我慢比べに、羅奈が辛うじて耐え抜いたことに安堵していた。

 さすがに羅奈がぬしになるのは可哀そうだと思う。


 ならばお前が主になってやればいいだろうと思うかもしれないが、何度も言うが、僕はこの現状をまったく不満に思っていない。全然耐えられる。


 それなのに家事責任者に立候補する理由も動機もない。


 羅奈の心情をおもんばかることはしても、身代わりになるほどの動機がない。

 動機がなければ、人というのは動けないものだ。


 特に五年前からポンコツになった僕のやる気は、この程度の同情心で発動するものではない。


 気の毒だとは思うが、僕にもどうしようもないんだ。

 すまないな、と思いながら、僕はもうひと寝入りした。



 こういう親は、もしかして世間的にはネグレクトと呼ばれる虐待の部類に入るのだろうか。


 だが、育児放棄というのは厳しすぎる言葉のような気がする。


 僕も羅奈も、すでに高校生で自分のことは自分で出来る。

 親が世話をしてくれなければ、飢えて死んでしまうような歳ではない。


 それに金銭に関しては、どちらもとても気前が良かった。


 結局一緒に暮らし始めたとはいえ、今までと生活を変える気もなかった二人は、これまで通り父さんが僕の生活費を渡し、香奈さんが羅奈の生活費を渡す慣習もそのままだった。


 父さんたちはほとんどを社食で済ませ、僕と羅奈はコンビニ弁当で済ませる。


 それらは何も変わらなかった。


 変わったのは、父さんと香奈さんが一緒に出勤して、一緒に帰ってきて、四六時中研究について語り合う時間が増えたことと、羅奈の学校が変わることぐらいだろう。


 父さんも香奈さんも、決して嫌な人間ではない。


 僕たちが何か困って助けてくれと言えば、きっと助けようとしてくれるのだろう。


 お金が足りないと言えば、渋ることなく出してくれるし、病気になれば病院に連れて行き看病もしてくれるだろう。部屋を片付けて欲しいと言えば、きっと出来る限り片付けようとするだろうし、夕ご飯を作ってくれと言えば、美味しいかどうかはともかく作ろうとしてくれるだろう。頼めば出来る限り聞いてくれる人たちだと思う。


 ただ先回りして自発的に何かをしてあげようと思わないだけだ。


 そして僕と羅奈も、たいていのことは自分で出来たし、親に何かを要求することで返さなければならないものが出てくることの方が面倒だった。


 人はギブとテイクで成り立っている。


 何かを要求すれば、何かを返さねばならない。


 掃除の行き届いた綺麗な部屋を要求するなら、自分も何かしらの役割を請け負わねばならない。


 手作りの夕ご飯を要求するなら、自分もその時間までに帰って手伝い、遅くなる時には忘れず連絡して食事の用意を「ごめんなさい」と謝って断らなければならない。


 家族のだんらんを要求するなら、自分も常に、家族がそろって大爆笑するような楽しい話題の一つも用意していなければならない。


 それが面倒だから、僕は何も望まない。

 きっと羅奈もそうなのだろうと思う。


 ただ、羅奈は気の毒なことに汚部屋に耐える耐性がなかった。


 この無頓着な四人の中では、圧倒的に不利なのだった。



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