第9話 引っ越し蕎麦

 昼から羅奈たちの荷物が運び込まれ、僕も結局いろいろ手伝うことになった。


 香奈さんの荷物は驚くほど少なかった。


「家具に特に思い入れもないし、全部捨ててもらうことにしたの」


 さばさばと告げる香奈さんは、大学生が初めて一人暮らしをする程度の荷物しかなかった。


 元々ミニマリストの傾向があったのか、服も女性にしては少なすぎるし、化粧品やその他の小物も最低限のものしかないようだった。


 母さんの使っていたベッドと布団を使い、ドレッサーも衣装ケースも母さんの使っていたものをそのまま使うそうだ。


 そういうのって女の人は嫌がるものなのだと思っていたが、どこにでも例外はある。

 香奈さんというのは、良くも悪くもそういうことに抵抗のない人らしい。


 対して、羅奈は自分の家具をすべて持ってきた。

 ベッドも勉強机も、時計も本棚も、食器も箸も、この家の物は一切使わない覚悟らしい。

 前の部屋よりここの方が少し広かったようで、家具はすべて綺麗におさまった。


 夕方には香奈さんはソファでくつろぎ、僕が買ってきた缶コーヒーを父さんと一緒に飲んでいた。やがて二人が仕事の話に熱中し出したので、僕はテーブルで缶コーヒーを飲みながら、なんとなく二人の会話を聞いていた。

 専門用語ばかりでさっぱり内容が入ってこなかったが、お互いに研究者として信頼し合っていることだけは分かった。これほど饒舌じょうぜつな父さんを見るのも初めてかもしれない。


 父さんには母さんより香奈さんの方が合っていたのかもなと思った。

 母さんはもう過去の人なのだと、改めて実感した。


 羅奈はまだ片付けの途中のようだったが、外が暗くなる頃にはリビングに下りてきた。


 そして「晩ご飯は?」と聞かれて初めて、僕たちはお腹がすいていることに気付いた。


「あら、そうだったわ。夕ご飯のことを忘れてたわね」

「そういえば昼も食べてなかったな。どうしようか」


 香奈さんと父さんは、大したことでもないように言ったまま解決案を出すでもない。


 僕はこの時初めて漠然と抱いていた違和感に気付いた。


 父さんは元々食事にも家事にも無頓着な人間で、お腹がすけば食べればいいという考えの人だ。だから息子がお腹を空かせてないか、なんてことを心配する発想はなかった。

 子供の食事を三食用意するという責任が自分にあるとは思っていない。


 それはずっと母さんの役割だった。

 母さんはいつも僕と父さんの食事の心配をしていた。

 僕と父さんが三食、栄養の偏りなく食べているかをいつも把握していた。

 それは母親の役割なのだと、僕と父さんは思い込んでいた。


 だがその常識は香奈さんには通用しないようだ。


 僕と父さんの食事は、香奈さんの毎日には関係のないことらしい。


「近所にどこか美味しいお店はあるかしら?」

「さて……。この近くで外食することはないからなあ」


 さっぱりらちが明かない二人にごうを煮やしたのは羅奈だった。


 二人のやりとりに大きなため息をつくと「引っ越し蕎麦でもとる? 宅配に電話しようか?」と言った。


 父さんと香奈さんは「それはいいね」と賛成して、結局四人で宅配蕎麦をすすることとなった。


 羅奈はすぐにSNSで調べると四人前の蕎麦を注文した。

 そして、その手際の良さに感心している僕をちらりと見て告げた。


「私のママがあなたの死んだお母さんのような人だと思わない方がいいわよ」



 母親が家事をするものだと、家族の食事の責任を負うものだと誰が最初に決めたのだろう。

 いや、誰も決めてはいない。そんな法律はどこにもない。


 だが僕と父さんは、完璧に家事を担う母さんに慣れきってしまった。


 母親というものはそういう役割を担ってくれるのだと、勝手に期待していた。


 僕は香奈さんが母親になれば、生活が改善するのだろうと心のどこかで思っていた。


 母さんがいたころの不自由のない生活が戻ってくるのだと期待していた。


 だが、香奈さんは一度だってそんな契約をするとは言っていない。


 香奈さんが署名したのは婚姻届であって、家事請負人の契約書ではない。


 父さんが羅奈の食事や生活の質に責任を感じてないように、香奈さんだって僕の食事や生活に関わる必要はない。

 

 香奈さんは自分の荷物を片付けはしたけれど、それ以外のリビングやキッチンや他の部屋を片付ける様子は最初からなかった。

 羅奈の部屋にしても手伝ったのは僕だけで、香奈さんは一度覗きにきただけだった。


 考えてみれば「子供」という存在にも、人当たりが良く愛らしい子供もいれば、僕のように冴えない上になんの可愛げもない子供もいる。


 母親にしても、死んだ母さんのような母親もいれば、香奈さんのような人がいても不思議ではない。香奈さんは、香奈さんであって「母親」という固定観念で作り上げられた存在ではないのだ。


 勝手に期待して勝手にがっかりしている僕が間違っていた。

 白藤さんに勝手に期待して失望しないでくれと思っていた僕は、香奈さんに同じことをしていたのだ。


 僕はつくづくしょうもない男だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る