第8話 引っ越しの日②


 僕は黙々と、まだ家具の入っていない部屋の拭き掃除をしていた。

 やるとなったら全力でやる。


 脚立を持ってきて壁の上部を拭き、照明カバーを外して中まで拭いた。


 羅奈はカーテンを外して、カーテンレールを拭いていた。


 腰の高さまである出窓には、母さんの趣味だったレースのバルーンカーテンがついていた。


 だが長年手入れされることもなかったカーテンは、少し黄ばんで段ボールを引っかけたのかすそが少し破れていた。洗濯してつくろうよりも新しく買い替えた方がいいだろう。


 そんなことを考えながら、僕は脚立に上って照明カバーを取り付けていた。

 これで僕のすべきことは終わったと、脚立を下りようとすると羅奈が下に立っていた。


 両手に黄ばんでほこりまみれのカーテンを抱えている。


「?」


 次の仕事を言い渡されるのかと思ったが、珍しく少し困ったような顔をしている。


「なに?」


 僕は脚立の中段に座り、羅奈の次の命令を甘んじて受け入れる覚悟をしていた。

 だが、彼女はまたしても予想外のことを告げた。


「カーテンを……替えてもいい?」


 何の相談だろうかと思った。


 羅奈の部屋のカーテンを替えるのに、僕の許可が必要だったか?

 僕はいつの間に許可を与える側になっていたんだ?

 そんな支配者層になった覚えはない。


 そんな立場の人間が、せかせかと命じられるままに拭き掃除をすることになるはずがない。


つつしんで替えたまへ」とでも言うべきなのかと思い悩んでいると、彼女が再び口を開いた。


「あの……亡くなられたお母さんが選んだカーテンなのでしょ?」


 どうやら彼女は僕の死んだ母さんが選んでつけていたカーテンを、勝手に処分することを躊躇ためらっていたらしい。


 この家の誰も、もう母さんの意向など気にしてなかったというのに。

 母さんの役割を誰も請け負わず、母さんが綺麗に保っていた家をゴミ屋敷にして、母さんの思い出を語り合う者もなく、抹殺してしまったというのに。


 羅奈は五年前の母さんに遠慮しているのだ。


 不意打ちをくらったような気がした。

 なぜだか鼻の奥がつんとしてくる。

 喉の奥からじんわりと熱いものが込み上げてきた。


 このままではやばいと思った。


 だから「僕が捨てておくよ」と言って黄ばんだカーテンを受け取って慌てて部屋を出た。



 僕というのは、思った以上に単純な人間だったようだ。


 新たに妹らしきものになるという羅奈に、僕は大した興味を抱いていなかった。

 むしろ面倒なことになったと少し迷惑に感じていた。


 その後のわずかな会話の中で、特に好感を持つようなこともなかった。


 かといって、嫌悪を感じているわけでもない。


 多少僕に対する態度が辛辣しんらつだと思うことはあったが、それも見ず知らずの同年代の冴えない男と一緒に暮らさねばならない羅奈の立場を考えると、当然の反応だろうと思っていた。


 僕はとても客観的に何の感情も交えず、羅奈という人間を見積もっていた。


 だが死んだ母さんへの気遣いを見せた羅奈の株は、僕の中で爆上がりしてしまった。


 僕は自分でも気付いてなかったが、死んだ母さんに断りもなく再婚する父さんに腹を立てていたのかもしれない。

 母さんの許可もなく、母さんが暮らした場所を奪う香奈さんを無神経だと思っていたのかもしれない。


 といっても、死んだ母さんに断ったり許可をもらうことなんてできないことは分かっている。

 分かっているけど、どこか釈然としない哀しみのようなものが僕の心の深いところを侵食していた。


 嘘でも建前でもいいから、母さんへの遠慮の言葉が欲しかった。


 だがそんなことを目くじらたてて非難するほどの強い感情ではない。

 僕だって人を責められるほど、母さんの死をいたんでいたわけではない。

 でもそんな自分を棚の上にあげて、僕は心の深いところで哀しんでいた。


 羅奈は、父さんと香奈さんがくれなかった、死んだ母さんへの気遣いをくれたのだ。


 それだけで羅奈がとてもいい子なのだと、僕の心の中に強く植え付けられた。


 人の思い込みというのは恐ろしい。

 過去をも違うストーリーに書き換えてしまう。


 羅奈はほんの数分前まで、寝ている僕に雑巾を手渡し拭き掃除を手伝わせる傍若無人な女の子のはずだった。


 だが僕の記憶は、勝手な憶測で書き換えられた。


 羅奈は自分の部屋が一晩でちゃんと片付けられていることに感動した。

 そして古いカーテンを付け替えようと思ったが、勝手に替えるのは死んだ母さんに申し訳ないと思った。

 だから僕に片づけたことのお礼と、カーテンを替える許可をもらおうと思った。


 だがいざ寝ぼけている僕に対峙すると素直になれなくて、持っていた雑巾を差し出しそっけない態度をとってしまった。


 ちょっと不器用なところも、彼女の誠実さのあらわれなのだ。


 本当はとても優しい子なんだな、と自分の勝手な憶測に僕はまた感動した。


 僕は……本当に単純な人間らしい。


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