第7話 引っ越しの日①

 翌日、僕がまだ寝ている時間に玄関のチャイムが鳴った。


 朝早く荷出しを済ませた羅奈と香奈さんが、電車に乗って荷物より先に到着したらしい。

 僕はゆうべ遅くまで羅奈の部屋を片付けていたので昼まで寝るつもりだった。


 階下では二人が父さんに挨拶する声が聞こえ、やがて階段を上る足音がした。

 足音は隣の部屋に入っていったらしい。


 床や壁の汚れを掃除してから、荷物を運び入れるつもりなのだろう。

 彼女たちの荷入れに僕ができることは何もない。

 荷入れが終わるまで、このまま眠ることにしようと再び目を閉じた。


 しかし、しばらくして僕の部屋のドアがノックされた。

 何の用か知らないが、僕はまどろみの中で無視することにした。

 僕に頼む程度の用なら、きっと父さんでも解決できるはずだ。

 僕が出ていく必要などないだろう。


 そんな僕の思惑も知らず「入るわね」という声がしたかと思うと、ドアが開けられた。

 僕は半分寝ぼけながら頭をもたげ、長い前髪の隙間から羅奈の姿を見止めた。


 羅奈はドアの前で、昨日、隣の部屋を開いたのと大差ない表情で唖然としていた。

 僕の部屋も、ほぼ物置部屋のようにごった返している。


 ジェンガのように積み重ねられた本や雑誌が、ベッドと勉強机に向かう二股の通路を作り出していた。よく使うものは上段にくるように計算尽くされた非常に機能的な部屋だ。


 彼女はその通路をずんずんと僕のベッドまで進み、途中でジェンガのひと山に接触して危うく倒しそうになっていた。神妙な顔でジェンガのバランスを戻している。


 僕はその様子を布団から顔を上げて半分夢心地で見ていた。


 確か一年半だけ家族ごっこをする男の家には入らないとか言ってなかったか?

 家に入らないのに、寝ている部屋に入るのはいいのか?

 ちょっと判断基準が分からない。


 やがて僕のベッドの真横に辿り着くと、すっとタオルのようなものを差し出した。


「?」


 僕がタオルと羅奈を交互に見て、この非常識な女の子に何を言うべきか悩んでいると、「雑巾ぞうきんよ」と言って、もう一度僕の目の前に差し出した。


 意味が分からない。

 雑巾と寝起きの僕に何の関係があるというのか。


「拭き掃除を手伝ってちょうだい」


 なんで僕が、と思ったが目の前に雑巾を出されて、反射的に受け取ってしまった。

 羅奈は僕に雑巾を渡すと、返事も聞かずさっさときびすを返してドアに戻っていった。


 いや、妹と思わないでいいと言ったはずだ。

 妹でもない赤の他人の女の子の部屋を僕が拭き掃除する意味って?


 むしろ無関係な女の子の部屋を拭き掃除する男って、やばいヤツじゃないか。


 冴えない男が、なんでもかんでも美少女の言いなりだと思ったら大間違いだ。

 ここは最初に厳しく言って関係性を改めないと。


 僕はベッドの上にむっくりと起き上がり口を開こうとした。

 だがそれよりも早く彼女が口を開いた。


「ちゃんと……片付けてくれたのね。……ありがとう……」


 僕に背を向けたままぎりぎり聞こえるぐらいの小声で呟いた。


「……」


 思いがけない言葉に、僕は自分が何を言おうとしていたのか忘れてしまった。

 そして、気付けば「どういたしまして」と答えていた。


 そうして五分後には、いそいそと羅奈の部屋の拭き掃除をしていた。


 やはり彼女は僕の切り替えスイッチを持っているらしい。



 僕のことを好きらしいと哲太が言っていた白藤さんだったが、同じ中学に入学したことを喜んではいなかった。


 彼女は、県内最難関の中学に合格するだろう僕が好きなのであって、自分と同じ龍泉学園に入学する僕には興味がないらしい。


 しかも中学の時は同じ特進クラスだったのが、高校で特進クラスから脱落してしまった僕に対しては嫌悪感のようなものすら感じることがあった。


 こんな情けない男を好きだった過去を悔やんでいるのだろう。

 僕が彼女の黒歴史を作ってしまったらしい。


 だからといって僕に恨みを向けられても困る。

 僕は彼女に好きになって下さいと言ったわけでもないし、難関中学に合格する将来有望な男だよと宣言したこともない。


 彼女が勝手に期待して、勝手に失望しただけだ。


 僕という人間は小学六年生で詰んでしまう男だった。

 むしろ告白する前に分かって良かったじゃないか。


 学校の廊下ですれ違うたび、全体行事で見かけるたび、残念そうに僕を見るのをやめて欲しい。


 僕は白藤さんの期待に応えるために生きているわけじゃないんだ。


 その期待は、僕じゃない誰かが応えてくれる。


 僕じゃない誰かなんて……星の数ほどいるのだから。


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