第6話 引っ越し前日

 初めて会ってから、ほんの一か月ほどで羅奈たち親子が引っ越してくることになった。


 そして引っ越し荷物をどの部屋に入れ、二人がどの部屋を使うのかを確認するため、前日に下見にやってきた。


 父さんという人は、そういうことを当日の朝まで言わない人だった。


 珍しく土曜日に家にいるなと思ったら、突然二人が今日訪ねてくると言い出した。


 僕は、山積みの郵便物といつ飲んだか分からないペットボトルの隙間で、昨日買っておいたサンドイッチと缶コーヒーを口にしながら少しだけ驚いた。


「え? どうするの?」


 どうするというのは、この半ばゴミ屋敷となっている家のことだ。

 祖母が前回片付けに来てくれたのは二か月以上前で、今が一番ひどい状態と言える。


「うむ。どうすることもないだろう」


 父さんというのは、とてもいさぎよい人だ。

 この惨状をありのまま見せるつもりらしい。

 まあ無理に取り繕って、あとで正体がバレるのも良くない気がするが、少しぐらいはショックを軽減させる気遣いがあってもいいと思う。


 だが僕の心配をよそに、父さんは僕のサンドイッチを羨ましそうに見ている。

 父さんは、土曜日はいつも研究所に休日出勤するついでにコンビニで朝食を買っている。

 今日は家にいなければならないことを忘れていて、何も買ってないらしい。


「食べる? おにぎりも買ってあるけど」


 僕は一日うだうだするつもりで、いろいろ買い置きしていた。


 父さんは「ありがとう」と言って、嬉しそうに冷蔵庫からおにぎりを二個持ってきた。


 ありがとうというか、父さんにもらったお金で買ってるんだけどね。

 

 僕と父さんは味気ない朝食を済ませ、ゴミぐらいはまとめようかと、二人で散乱したペットボトルやら郵便物をゴミ袋に入れることにした。


「あの子は……どこの部屋にするつもり?」


 僕は片付けながら羅奈のことを「あの子」と呼んで尋ねた。


「羅奈ちゃんか。ほら、お前の隣の部屋が空いてただろう」


 元々家を建てた頃は、母さんは二人目が欲しいと思っていたらしい。

 結局できなかったようだが、一応子供部屋を二つ用意していた。

 

「でもあの部屋は空いてるって言うのかな……」


 母さんが死んでから、置き場に困った段ボールや不用品を放り込む物置になっていた。


 絶対まずいことになりそうな気がするが、今更どうすることもできない。

 もはや焦っても仕方がない。

 父さんにならってありのままを見せるしかなかった。


 だが、ゴミを片付けたら、リビングはずいぶん片付いたように思えた。

 少しだけほっとした頃に玄関のチャイムが鳴って二人が入ってきた。


 羅奈と香奈さんは、他人の家を訪問するのに相応しい、少しかしこまった服装だった。

 香奈さんはベージュのパンツスーツで、羅奈は緑のワンピースだ。

 二人ともよく似合っている。


 対して僕と父さんは、寝起きのジャージ姿のままだった。

 少し弁解するなら、今の今までゴミを片付けていたからだ。仕方がない。


 僕たちの服装を見て少し眉間にしわを寄せた羅奈だったが、リビングに入ると大きな目をさらに丸く見開いて、言葉を失っていた。


 僕的にはかなり綺麗に片付いたように思っていたが、羅奈の目には驚愕の汚リビングだったようだ。


「詐欺だわ……」と呟いたまま絶句している。


 詐欺とは失礼な話だ。

 僕たちは綺麗な家に住んでいますとは一言も言ってない。

 そもそも男二人の家が綺麗だと思っていた方が間違っている。


「庭はとても手入れが行き届いていて綺麗だったじゃない。家の中も綺麗だと思うじゃない。だから引っ越すことにも了承したのに」


 どうやら先日家を見に来ていたのは、自分が引っ越してもいい家かどうか確認に来ていたらしい。そしてきちんと手入れされている庭と家の外観を見て、大丈夫だと思ったようだ。


 あの時、僕のお茶の誘いを受けて家の中に入っていれば確認できたのに。

 今更言っても遅いけど。


 家の中を見ていたら、羅奈が大学に入るまで別居婚、あるいは羅奈だけ元の家に一人暮らしを選んでいたのかもしれない。


「あら、素敵な家じゃないの。郊外の一軒家って羅奈も住んでみたいって言ってたじゃない」


 香奈さんの方は、意外にも気に入ってくれたようだ。

 元々職場で長年父さんを知っているだけに、家の中の惨状も想像していたのかもしれない。


「私の部屋は?」


 羅奈は肩を落としてうつむいたまま呟いた。


「ああ。案内してあげなさい、蒼佑」


 父さんはなんてことないように僕に言った。


 ものすごく嫌な役目だ。

 僕にとっては土下座して頼まれても断りたい案件だ。

 僕は仕方なく、重い足取りで階段を上がって二階の一室に羅奈を案内した。


「ここだけど……」


 僕がドアを開いて見せると、空の段ボールがなだれのように崩れ落ちてきた。

 そういえば、このあいだ僕の部屋に山積みになっていた段ボールの空き箱を、ここに突っ込んだところだった。


 僕は段ボールを拾い集めながら、恐る恐る羅奈を見た。


 羅奈はがらくたで溢れた部屋を呆然と見つめた後、キッと僕を睨みつけた。


 いや、僕に怒られても困る。

 悪いのは父さんで、僕は……いや、僕も悪いのか……。

 この物置部屋の半分ぐらいは僕の不用品だろうし。


 羅奈の絶望的な表情を見ると、少しだけ罪悪感のようなものを感じる。


 羅奈は気持ちを落ち着けるように、目を閉じて一回だけ深呼吸をした。


 そしてゆっくりと目を開くと、底冷えするような冷たい声で僕に囁いた。


「明日までに全部片づけておいて」


 そんな無茶なと思ったが、羅奈の氷のような視線を感じて言い返すことはできなかった。


 だから「分かった」とだけ答えた。



 僕という人間は、やればできる子だった。


 ただやらないだけだ。


 やるべき理由があれば、人並み以上のことができるのだと自負している。


 何度も言うが、ただやらないだけだ。


 そして、この五年間、この「やらない」を「やる」に切り替えるスイッチがどこかにいってしまったらしい。

 たぶん母さんが持っていたんだ。

 母さんだけが持っていた。


 その母さんが死んでしまって、僕のスイッチは誰にも押されないまま止まっていた。


 だが、どういうわけか羅奈がそのスイッチを持っているらしい。


 羅奈を怒らせると、なぜかひどく悪い事をしてしまったような気がする。


 そしてなんとかしなければいけないような気がしてしまう。


 僕は久しぶりによく働いた。

 

 空の段ボールを片っ端から潰して束にして、不用品は外の物置に運び、季節ものの電気製品は空いている物入れにしまい込んだ。


 結局夜遅くまでかかったが、とりあえず部屋の中を空にすることはできた。


 僕はやる気にさえなれば、とても手際がいい人間なんだ。

 やる気にさえなれば……。


 そして……。


 にわかにスイッチが作動した僕は、一晩眠ると再びオフモードに戻っていた。


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