第1話 ただいま
そこは、何の変哲もない住宅地だった。
アスファルトでできた道路、規則的に並ぶ電柱、赤色の自動販売機。
笑い話をしながら帰宅する学生、スーパーの袋を荷台に乗せて自転車をこぐ主婦。
友人と追いかけっこしながら帰る小学生。
そこは、僕の通学路だった。
震える手が、制服の胸元を握りしめる。
どくどくと波打つ心臓が、確かに、僕がここにいることを証明してくれる。
「帰ろう。」
そう言って、夕焼けが紅く染める住宅街を駆け出した。
何年も、何十年も、何百年も、それ以上も生きていく中で、当然記憶は薄れていった。
帰りたいと願っていた、この世界の記憶ですらもう曖昧だった。
それでも、この帰り道だけは、家へまでの道順だけは忘れることはなかった。
会いたい人がいたから。帰りたい場所があったから。ただいまと言いたかったから。
騒がしいコンビニを横切って、閑散とした公園を通り過ぎて、赤いポストを右に曲がって、青い屋根の家の隣。
小さな庭がある一軒家。
古びた白い表札に書かれた「楠木」の文字。
震える手で、表札の文字をそっとなぞる。
「夢じゃない。」
何度も夢に見て、何度も絶望した。僕の帰る場所。
そっと、ドアを開く。
曖昧な記憶では、もう家の中だって、詳細に思い出せないけど、確かに、ここは自分の家だという安心感が心を占める。
「ただいま。」
呟くように吐き出した声は、自分でも情けなくなるほど弱弱しかった。
靴を脱いで、明かりがついているリビングへ向かう。
扉を開ければ、キッチンに、黒いシャツを着た男がコーヒーを入れていた。
その姿に、思わず目が滲む。
「琉人、お帰り、どうしたの?」
人を落ち着かせる少し低めの声と、柔らかな口調。
コーヒー好きで、服に無頓着。
コーヒーを入れたマグカップをもってそっと振り向く。
「りゅう・・・かなた?」
驚いた顔で僕の名前を呼ぶその人は、長男で、育て親で、優しい人で、僕が一番会いたかった人。
この世界を忘れかけても、この家が僕の帰る場所だと忘れさせなかった人。
「ただいま、ともき兄さん。」
滲む視界で、どうにか口端を上げようとして失敗した。
「おかえり、おかえり、奏多。ずっと、待ってた。」
マグカップを放り出して、飛びつくように抱き着いてきた兄さんがそう、ささやいたから。
多分、次元の裂け目は不安定なのだろう。
あちらの世界に行った時と同じ時間帯に戻れると思っていたが、ズレが生じていたみたいた。
それでも運が良かった。ズレが大きすぎて、全く違う時代に移動する可能性だってあったから。
兄さんからしたら十年ぶりの、僕からしたら千年ぶりの「ただいま」は2人とも涙が枯れるまで続いた。
すっかり、涙が枯れて目を赤くさせた兄は、僕に体に異変がないかなど確認すると、「よかった。」と呟き、そのまま僕に体を預けるように眠ってしまった。
顔についていた眼鏡を外し、目元を見ると、はっきりしたクマができていて兄の体調の方が心配になった。
多分、眼鏡も僕があちらに行く頃には付けていなかったから、視力も悪化しているんだろうなんて、この世界での時間の流れをいまさら実感する。
僕はこれからどうするべきか。多分、「不老」の体質は変化していないし、向こうで得た力もこちらで使えるだろう。
気を付けないとこちらの世界でも面倒ごとを引き寄せてしまうかもしれない。
今度は家族を狙われるかもしれない。向こうでは、なくすものがなかったけど、この世界は鎖となるものが多くあるのだろう。
逃げてばかりいたから、守るのはあまり得意ではない。
「とりあえず、まずは知識を集めないとか。」
もたれかかっている兄をそっと、抱きかかえる。
背丈はそれほど変わっていないようなので、僕のほうが少し高かった。
兄の部屋に運ぼうと、階段へ向かう最中、ふと思い出す。
友達と喧嘩したり、学校がうまくいかなかった日に癇癪を起して泣き疲れた僕を、こうして兄が運んでくれたことを。
特殊な家庭環境だと指さす大人や同級生から、僕を抱きしめて笑いかけてくれた兄のことを。
「今度は僕が守るからね、とも兄。」
「兄さんから離れろ、不審者。」
かぶさるように聞こえた声に振り返ると、知らない女性が特殊警棒を伸ばし僕を睨んでいた。
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