第3話 真の「我(われ)」がなくなった日本人
50年前の後楽園遊園地や、浅草の花やしきは、遊戯施設はあるが、そこへやって来る大人から子供までの人間そのものが、皆それぞれに個性があり、個々人に面白みというか趣があった。
遊戯施設という道具を使って自分のなかにある情緒や感興を拡げるという楽しみ方でした。
しかし、現在のディズニーランドだとか、なんとかハウスといった遊園地とは、そこへ一歩足を踏み入れると、見るもの聞くもの・食べ物・飲み物、お土産等々、すべてがその遊園地の世界・価値観に強制的に染められてしまう。
まあ、そんな架空の世界へ来る人間というのは、政府やマスコミに脳みそを漂白された(洗脳された)、無宗教・無思想・無個性の人間ばかりだからか、そんな「まやかしの規則や規制」を簡単に受け入れ、せっかく作ってきたお弁当をゴミ箱へ捨ててしまうらしい。(東京ディズニーランドでは、家族が持参したお弁当は入り口で廃棄させられる、と聞いたことがありますが本当なのだろうか。)
入園口で、それまでのすべてを一切捨て去り、遊園地の中の世界に浸らせる → 水からお菓子・食事、何から何までその世界に浸ることで楽しむ(楽しまさせられる)、という夢遊病者のようなスタイル。
子供から大人まで、当人たちが自分の頭で考え、自分の感性で感じ、自分の心で楽しむのではなく、無理やり笑わされ、無理やり悲しまされ、無理やり感動させられ、無理やり楽しんだ気持ちにさせられる。それを半分わかっている大人でさえ、そういう「無理やり感」に浸ることで安心する。
「戦いは生命の条件である。戦いが終わる時、生命は集束する。」とは、ロシアの文芸批評家ベリンスキー Vissarion G. Belinskii(1811~1848)の言葉だそうですが(「ロシア語のすすめ」東郷正延 講談社現代新書)、一方的に安心させられる効果のある「麻薬のような安心感」に浸るとは、自己の生存(闘争)本能を放棄した、ということになるのではないのだろうか。
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