第14話 マルコの見たもの〈2〉
その姓を今でも使ってはいるが、マルコの中でカンナヴァーロという商人の印象はほとんど残っていない。
なぜなら彼とはどれほども経たない内に離別する羽目になったからだ。
荷車で街道を往けば賊に襲われる。これはフランチェスコ仕込みの剣でマルコが撃退した。
着いた港町ではいざこざに巻き込まれ、カンナヴァーロが重傷を負ってしまう。
彼に代わってマルコが取引に出向けば、そこには例の賊が待ち構えていた。嵌められたのだ。商談の名目では剣も持ち合わせておらず、その上に多勢に無勢とあってはどうしようもない。
そのままマルコは奴隷として船に積まれた。行き先はニルバド皇国。
「傭兵になりたくないと反発して商人を目指したつもりが、次は奴隷か」
よほど奇妙な星の下に生まれたのだろう、と狭い船中で何度もため息を吐いた。
あまりに狭すぎたため、腕が当たっただの足が当たっただの些細な理由で揉めることも多かったが、航海が進むにつれて全員が静かになっていった。体力の無駄遣いだと誰もが理解したからだ。
ニルバド皇国の国土は広い。皇都を中心とした直轄地があり、そこから離れた周縁地域を次期皇位継承権を持つ皇子たちが受け持っている。
マルコが運ばれていったのは、第六皇子であるジャズイールが治める地だ。
皇位継承権を保有する皇子たちの中でも、まだ若いながら飛び抜けた軍事的才能の持ち主だと誰もが認めるほどの俊才である。もちろん戦功も際立っていた。
強兵として各方面から恐れられているジャズイールの軍だが、特に悪名を轟かせていたのは奴隷兵たちのみで構成されている部隊だった。
どの戦闘であっても先陣を切り続けることを求められ、鋭い槍の穂のごとく敵兵たちを切り裂いた。多勢の犠牲と引き換えにして。
そんな奴隷部隊がマルコの新しい居場所であった。ここで少年だったマルコは成長し、いっぱしの青年となる。
とにかく生き延びるのに必死であり、他のことを考える余裕など一切ない。
もう両親や生まれてこれなかった弟妹を懐かしく思いだしたりもしなかった。戦場から戦場へ、ひたすら血と土煙に塗れる死に物狂いの日々が続く。
当然、数え切れないほどの人間をその手で殺した。
普段はその事実を顧みることもない。無法の戦場では生き残るためにすべてが正当化されるからだ。
けれども不意に、罪の意識がマルコを襲う。弱さの顕現かもしれないその瞬間に彼は一歩だけ、自分が死へと近づいたように感じた。
怖くはなかった。ただ、まだその時ではないようにも思える。
いまだ勢いの衰えないジャズイール第六皇子の軍は海を目指していた。港を手に入れれば、皇位を争う他のきょうだいたちに差をつけることができる、きっと周囲はそのように考えていただろう。
だがマルコの感触は違った。
奴隷部隊はジャズイールの直轄であり、大きな戦いの折には必ず部隊の前に姿を現して彼自ら叱咤激励の言葉をかけていた。
ジャズイール第六皇子は二面性を持つ。
使えないと判断した者を容赦なく処刑する一方で、身分にかかわらず優れた者は評価した。必死に戦ったところで誰も顧みることのない奴隷兵に、働きに見合うだけの褒賞を惜しげもなく与えたのだ。
なのでニルバド皇国にではなく、ジャズイール第六皇子個人へ死をも厭わぬ忠誠を誓う奴隷兵も少なくなかった。
そうさせてしまう魅力があったのは確かだ。恐怖だけで人は動かない。
彼の目的がいずれ皇帝の座に就くことなのか、と問われればマルコの答えは「否」である。
手に入れたところですぐに飽きて放りだしそうな、まるで子供みたいな不安定さがジャズイール第六皇子にはあったからだ。
闘争そのものに喜びを見出し、生を実感する。おそらくはそういった類の人物なのだろう。そんな男が大国の軍を率いる立場にあったことは、周辺諸国にとって大いなる不運としか形容しようがない。
港湾都市ヤズーの陥落をもって、西方への戦線を展開してきたジャズイール軍の進撃も一段落となった。これ以降の版図拡大は海峡を渡り、ひしめき合う都市国家群を蹴散らしていかねばならない。
そして位置的に最初の難敵となるのが古豪ヴァレリア共和国。その勢力圏である商都テザンも戦場となるはずだ。
このままいけば、マルコは見知った顔とも戦わなければならない。
なぜだかフランチェスコの顔が脳裏に浮かび、慌てて頭を振る。
「あんな男、どうなろうと知ったことか」
吐き捨てたその言葉とは裏腹に、彼は脱走の可能性を俎上に載せていた。
ヤズーを落とした後の数日間はさすがのジャズイール軍も解放感に満ちており、もちろん奴隷部隊も例外ではなかった。
しばらく戦闘行動はない、そんな気の緩みがわずかにあったのだ。
この機会をマルコは見逃さない。
「どうせ何度も死んだような身だ。もう一度命を賭けてみたって構うものか」
彼が選んだ逃走経路はまさかの海峡越えである。
兵士たちの酒盛りの喧騒が途絶えるのを待ち、静まり返った夜の闇にまぎれながら無謀にも小舟で荒れた海へと漕ぎ出していく。
いざとなれば自力で泳げばいい。
破れかぶれの、あまりに分の悪い賭けだったがそれでもマルコは勝った。
意識を失い、対岸に流れ着いた彼はすぐに素性を調べられる。それからしばらくして、マルコの身柄がヴァレリア共和国へと送還されることになった。
「間者と疑われたかもな。それとも情報をこってり搾り取る気かな」
道中、粗末な馬車に揺られながらそんなことを考えていた。ヴァレリア側からすれば当たり前の対応であり、別に腹は立たない。
やけに心が穏やかだった。
すでに何十年分も生きてきたような気さえしている。
この先の人生に望むことなど今さらありはしないが、叶うならば一つだけやってみたいことはあった。
これまでひたすら多くのものを失い続けるしかなかったマルコだ。せめて一度くらいは何かを守り切ってみたかった。他者を踏みにじるためではなく、護るために自らの命を捧げたかった。
そんな心持ちで馬車を下りた彼を出迎えたのは見知った顔である。
不意に懐かしさがこみ上げ、相手に悟られまいとして必死に唇を噛む。
出迎えた男が無精ひげを撫でながらにやりと笑った。
「言っただろう? おまえにゃまだ死相が出ていないってな」
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