第13話 マルコの見たもの〈1〉
マルコ・カンナヴァーロが生を受けたのは商都テザンである。
十四人の豪商たちによる合議制で運営されていたテザンだが、彼の父もその一員として名を連ねており、都でも屈指の名家として知らぬ者はなかった。
といってもその家はカンナヴァーロ家ではない。当時はマルコ・ネリという名であった少年は父と母に愛され、明るく育っていた。
彼が十一歳になった頃だ。
母は身重で、弟か妹かができるのをマルコはとても楽しみにしていた。少し年を重ねているから、と父はやけに心配していたが、万事において大らかだった母が笑い飛ばしているのがネリ家での日常の光景であった。
「どんな名前がいいかな。弟と妹、どっちが生まれてきてもいいようにちゃんと考えておかなくちゃ」
寝る前にあれこれと候補を思い浮かべてみるのが特に好きだった。一足早く夢の中で会えるような気がしていたからだ。
だがそんな日々も一気に暗転する。
近隣のヴァレリア共和国と密接に繋がっている強力な傭兵団が、防衛部隊を蹴散らしてテザン内部へ攻めこんできたのだ。
傭兵団を率いる首領の名は、ダルマツィオ・ディ・ルーカといった。
ダルマツィオは商都テザンを動かす十四人の商人たちへ屈服を迫る。
商人たちはこれまでの事例に則り、何度も会議を重ねた。しかし意見は分かれ、どうしても結論が出ない。
この状況に業を煮やしたダルマツィオが強硬手段に出る。
無作為に選んだ、とある一家を拘束して見せしめのために処刑することにしたのだ。それがマルコたちネリ家であった。
しかし決定に激しく反発している傭兵団側の人物もいた。
「このようなやり方、かえってテザンの者たちの反発を招きましょう。拙速な蛮行でしかありませんよ。今しばらく議論を待つべきです。団長、どうか再考を!」
ダルマツィオへ大きな声でそう迫っているのが、縄で荒っぽく縛り上げられたマルコの耳にも届いてきた。
その諫言は一蹴されて終わったが、声の主はなかなかに諦めが悪かったようだ。
寝静まった夜、密かにネリ家の前へ姿を現した男の顔が蝋燭の小さな炎に照らしだされる。まだ青年といっていい顔つきであった。
彼は父の猿轡を解き、静かに告げた。
「私は副官のフランチェスコと申す者。あなたたちを逃がそうと思う。ネリ家ならばいずこかに伝手はあるだろう? しばらくこの地を離れて身を隠すがいい」
けれども父は首を横に振る。
「慈悲深い申し出、感謝の念に堪えません。ですが受諾いたしかねます」
「なぜだ」
予期せぬ反応だったらしく、フランチェスコと名乗った男が問うた。
「わたしたちが逃げれば、あの男の怒りはちょっとやそっとじゃ収まりますまい。きっとテザンに大勢の犠牲者が出ることでしょう。それこそフランチェスコ殿の身もどうなることか」
「だからといってあなた方がむざむざと死を選ぶというのは違うだろう……!」
敵とは思えぬほどの悲痛な声でフランチェスコは嘆く。
しばらく沈黙していた父だったが、隣にいる母がしきりに目配せをしているのに気づいた。母の目線はマルコへと向けられていた。
小さく頷き、父はフランチェスコに正対する。
「でしたら一つだけ、お願いがございます」
「何でも言ってくれ」
「息子のマルコだけは助けていただきたいのです」
一瞬、フランチェスコは唇を噛んだ。
けれどもすぐに表情を消し、深く頭を下げる。
「承った。ご子息の人生、このフランチェスコが預からせてもらう」
猿轡のせいで声も上げられず、身動きもとれずにいるマルコには、自分の行く末が決められていくことへ何の意見もできなかった。
父と母、そしてまだ見ぬ弟か妹と暮らす日々はこうして夢の中だけで終わってしまったのだ。
翌朝に執行されたネリ家の処刑を、マルコは自身の目で見てはいない。親代わりとなったフランチェスコからそう聞かされただけである。
勝手にマルコを助命したフランチェスコの行動は、当然ながらダルマツィオの怒りを買った。
それでも商都テザンが目論見通りネリ家の処刑によって屈服したのもあって、しばらくの謹慎処分だけで済まされた。
実子だから、という手心もあったかもしれない。
傭兵団への従軍を許されず、フランチェスコとマルコの二人暮らしが始まった。ただし半年にも満たない、わずかな期間ではあったが。
テザンを離れた一軒家でフランチェスコは徹底的にマルコをしごき、鍛え上げようとする。容赦という言葉はまったく感じられなかった。
家族のことも相まって、何度マルコが彼を殺そうとしたかわからない。
「おれは傭兵になんてなりたくない! 父上みたいな商人になりたかったんだ!」
そう叫び、刃をフランチェスコに突き立てようとした日のことだ。
いつものように素手で軽くいなしつつ、流れるような動作でマルコの腕を取り押さえたフランチェスコが言った。
「それがおまえの夢か?」
「悪いかよ! 全部おまえたちがやってきて台無しになったんだ!」
わかった、とだけ答えたフランチェスコの様子はやけに穏やかで、何だか気味が悪かったのをマルコは今でも覚えていた。
数日ののち、またしてもマルコに転機が訪れる。
実質的にヴァレリア共和国の支配下となった商都テザンに見切りをつけ、他の都市へ移ろうとしている商人がいた。この男がカンナヴァーロである。
フランチェスコはマルコへ淡々と告げた。
「あの男についていけ。ゆくゆくはニルバド皇国とヴァレリア共和国、どちらとも取引ができる大商人になりたいそうだ」
ここにいてはヴァレリアの影響が強すぎるからな、と彼は言う。
もちろんマルコに異論などない。憎い男とともに暮らし、なりたくもない傭兵として生きるために鍛錬漬けの日々を送ってきたのだ。
その生活を一変できる機会が巡ってきたのであれば乗るしかないだろう。
こうしてカンナヴァーロの養子となったマルコは商都テザンを後にした。
もう二度と会うこともないであろうフランチェスコにも、礼儀として別れの挨拶だけはきちんと済ませた。
その際に彼は「大丈夫だ、死相は見えない」と口にしている。餞の言葉とはとても思えないが、最後にあえて喧嘩腰になる必要もない。
マルコは黙って頷き、彼の下を去っていく。
けれどもマルコの数奇な運命はここで手を休めたりはしなかった。
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